移り変わる味覚・食
文・橋本英明/写真・垂見健吾 協力・JTA
「三崎館本店」の女将、 渡辺淑子さんと「かぶと焼き」。
<三崎館のカブト焼き> 神奈川県三浦市、三崎港の入口に「三崎館本店」がある。海の男たちの知恵を受け継いだ「かぶと焼き」は野趣豊か、まさに食の原点に触れるような豪快さである。決してゲテモノと呼ぶなかれ、海の至宝との究極の対面と考えるべし。直径30cm余り、重さは5kgはあろうかというクロマグロの頭を、何と4時間以上かけ、じっくりとオーブンで焼き上げる。調味料は一切加えない。直径5cmの大目玉にひるむことなくまずその目玉をフォークでくり抜いて、その奥のゼラチン状の真っ白な脂を取り出す。三浦大根のおろしと醤油でズルズルと口に運ぶと、大トロ以上の滋味が舌の上に広がる。歯ごたえのある目の奥の筋肉もいける。ほおの身はササ身のステーキにフォアグラのペーストをそえたような風味だ。黒く焦げた皮をパリパリと削ぎ落とし、鰹の一節ほどもある頭の肉のステーキを食べ終えた頃には、体中から脂の汗が噴き出していた。
豊漁は再びやってきた。潮流に乗って、マグロの大群が江戸近海に押し寄せたのである。天保三年(1832)の2月〜3月のことだ。人気がないため値段はあってないようなもの。豊漁つづきの大量水揚げによって前代未聞の安値となり(※1)、さばききれない膨大な量のマグロは塩漬けや醤油漬けにした。 江戸前寿司は1817年ごろ華屋与兵衛という人が発案したといわれている。江戸前=東京湾と定義するならば、マグロは江戸前の寿司肴になりえないことになる。華屋与兵衛が考案した当初もマグロの握りは存在しなかった。たまたま天保年間にマグロの価格が下がったため、おそらく与兵衛は「このマグロを利用しないテはない」と考えたのだろう。醤油漬けにしたマグロを肴に用いた。赤身のことをヅケと呼ぶのは、この醤油漬けからきている。醤油漬け自体を始めたのも与兵衛であると言われているが、日本橋のある寿司屋の主が考えだしたという説もある。まあどちらにせよ、この寿司は人気を呼び、明治時代の中ごろまで肴に用いたマグロは醤油漬けだった。それでも、脂の乗ったトロに関しては敬遠されていたのだ。 さて、トロ。トロに消費者が目を向けだしたのは第二次大戦後のことだ。食生活が洋風化するにつれて、日本人も脂ぎったものに慣れてきたからだろう。今では御存じ、高級品である。とくに脂の乗った近海生鮮モノのクロマグロの大トロなどは、魚河岸から高級料亭に直行、庶民の口に入ることは希である。
※1 「何れも中型鮪にて小田原河岸の相場は二尺五・六寸から3尺ばかりのもの一尾が二百文、飯の菜には二十四文の切身で二・三人で食べても残る」と兎園小説余禄にある。小田原河岸は江戸日本橋にあった。