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移り変わる味覚・食

文・橋本英明/写真・垂見健吾
協力・JTA

「三崎館本店」の女将、
渡辺淑子さんと「かぶと焼き」。

 

<三崎館のカブト焼き>
神奈川県三浦市、三崎港の入口に「三崎館本店」がある。海の男たちの知恵を受け継いだ「かぶと焼き」は野趣豊か、まさに食の原点に触れるような豪快さである。決してゲテモノと呼ぶなかれ、海の至宝との究極の対面と考えるべし。直径30cm余り、重さは5kgはあろうかというクロマグロの頭を、何と4時間以上かけ、じっくりとオーブンで焼き上げる。調味料は一切加えない。直径5cmの大目玉にひるむことなくまずその目玉をフォークでくり抜いて、その奥のゼラチン状の真っ白な脂を取り出す。三浦大根のおろしと醤油でズルズルと口に運ぶと、大トロ以上の滋味が舌の上に広がる。歯ごたえのある目の奥の筋肉もいける。ほおの身はササ身のステーキにフォアグラのペーストをそえたような風味だ。黒く焦げた皮をパリパリと削ぎ落とし、鰹の一節ほどもある頭の肉のステーキを食べ終えた頃には、体中から脂の汗が噴き出していた。


「鮪づくし」は、胃袋の唐子味噌和え、少量しかとれない皮の酢の物、ゆばで巻いた上品なしんじょ揚げ、卵の寄せ物、お刺身など、さまざまなマグロの美味、珍味で構成される。
   醤油にパッと散る脂、ツンと鼻に抜けるわさび、口蓋と舌の僅かな圧力のみでやわらかく融けだす甘味。
 とにもかくにも、今はトロの時代なのである。「今は」と述べたワケは、マグロの味に対する人々の嗜好にも流行があったからにほかならない。
 日本人とマグロの付き合いは長い。中〜後期縄文時代以降の貝塚からも、マグロの骨はたくさん発見されている。古代人がどう料理したのかは推察に頼るほかないが、頭の付いた脊椎骨がそのまま当時の「ゴミ捨て場」から出土しているので、おそらく三枚におろしたうえで、生食なり蒸し焼きにするなりしたのだろう。ただ、トロと赤身のどちらが好まれたかは知る術もない。
 古事記や万葉集にもマグロは登場する。例えば723〜743年ごろ作られたという『万葉集』巻六、山部赤人の歌にも、「荒たへの 藤井の浦に しび釣ると 海人船散動き……」という一節がある。「しび」とはクロマグロのこと。いにしえの人々も、きっとマグロが好きだったに違いない。しかしながら、トロか赤身かの問題は、やはりよくわからないらしい。
 江戸時代ともなると、さすがに食べ物としてのマグロに関する記述が行なわれている。しかし、現在の状況とは逆、下魚にランクされていた。『本朝食鑑』には「凡そ士以上の人は食べないもの……」とあるが、それでも近頃では宴席に出すようになったといっているので、1700年頃には割と食べていたらしい。ところが『江戸風俗誌』によると、「……まぐろなどは、はなはだ下品にて、町人も表店住まいの者は食することは恥ずる体なり」とある。塩漬マグロは時代劇でおなじみ、長屋暮らしの人々や、山村生活者たちの食べものだった。また、今でこそ垂涎の的となっているトロなどは二束三文、捨てられていたとさえいわれる。  幕末近くになって、ようやくマグロを食べる人間が増えてきた。将軍家斉の時代である。文化七年(1810)の冬に豊漁があり、価格が大幅に下がったからだろうといわれている。馬に背負わせたり荷車に乗せたりして田舎へも運んだ。  
「三崎館」は明治40年の創業。当初、三崎館のすぐ裏手は海だった。写真は海が埋め立てられた後、増築されてすぐのもの。
 

 豊漁は再びやってきた。潮流に乗って、マグロの大群が江戸近海に押し寄せたのである。天保三年(1832)の2月〜3月のことだ。人気がないため値段はあってないようなもの。豊漁つづきの大量水揚げによって前代未聞の安値となり(※1)、さばききれない膨大な量のマグロは塩漬けや醤油漬けにした。  江戸前寿司は1817年ごろ華屋与兵衛という人が発案したといわれている。江戸前=東京湾と定義するならば、マグロは江戸前の寿司肴になりえないことになる。華屋与兵衛が考案した当初もマグロの握りは存在しなかった。たまたま天保年間にマグロの価格が下がったため、おそらく与兵衛は「このマグロを利用しないテはない」と考えたのだろう。醤油漬けにしたマグロを肴に用いた。赤身のことをヅケと呼ぶのは、この醤油漬けからきている。醤油漬け自体を始めたのも与兵衛であると言われているが、日本橋のある寿司屋の主が考えだしたという説もある。まあどちらにせよ、この寿司は人気を呼び、明治時代の中ごろまで肴に用いたマグロは醤油漬けだった。それでも、脂の乗ったトロに関しては敬遠されていたのだ。  さて、トロ。トロに消費者が目を向けだしたのは第二次大戦後のことだ。食生活が洋風化するにつれて、日本人も脂ぎったものに慣れてきたからだろう。今では御存じ、高級品である。とくに脂の乗った近海生鮮モノのクロマグロの大トロなどは、魚河岸から高級料亭に直行、庶民の口に入ることは希である。

※1 「何れも中型鮪にて小田原河岸の相場は二尺五・六寸から3尺ばかりのもの一尾が二百文、飯の菜には二十四文の切身で二・三人で食べても残る」と兎園小説余禄にある。小田原河岸は江戸日本橋にあった。

 
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