第二回:日本の資源管理制度(その1)
人と海との関係の一つとして、食料を海から調達する、すなわち漁獲という行為は古来万国共通のものです。日本で発達してきたこの漁獲のルールはどのような国際的な特徴を有しているのか、そのなかでレジャーとしての釣りは現在どのような位置にあるのか、そして今後どう発展していくことが可能なのかを考えてみたいと思います。まずはその前提作業として今回と次回の二回にわたり、日本の漁業制度、特に海洋生物資源の管理制度について、その歴史と性格をご紹介したいと思います。
制度と所有権
人々が考案した、社会活動を規定するルールのことを制度といいます。制度には法律や判例などの公式なもの(formal institution)の他に、社会的又は組織的な規範、慣習、宗教など(informal institution)も含まれます。この制度は人々の価値観や意思決定の基準となり、また一方で、人々の活動や環境・社会・技術的な変化は制度の変化を誘発します。つまり制度とその下で営まれる人間活動は不可分の関係にあります。
資源の利用に関していえば、ある資源の希少性や経済価値が増大したり、人口増加等によって資源利用に競合が生じたりすると、利用に関するルールが生み出されます。これが資源利用制度です。
経済学の中には新古典派経済学という資本主義・市場経済の理論的支柱の一つとなっている理論があります。この理論では、最適な資源利用を達成する為の方法は対象資源を分割して明確な所有権を設定することであるとされます。全ての資源にちゃんとした所有権を設定して、さらにその資源を自由に売買する市場さえ創出してやれば、市場機構(または価格機構)とよばれるメカニズムが働いて、知らないうちに社会が“最も良い”状態になる、というのが新古典派経済学の最も強力な主張です。このメカニズムはよく「神の見えざる手」とも呼ばれます。地球温暖化対策として有名な温暖化ガス排出権取引制度は、「温暖化ガスを空気中に排出する」という権利を設定して国家間、地域間で自由に売買するというルールであり、この神の見えざる手を応用した制度ということができます。
しかし魚類のように、人間の制度も国境も関係なく水中を自由に移動し、その量自体も大きく変動するような資源に対しては、明確な所有権が技術的に設定できません。野生生物である海の魚は本来誰のものでもないのであり(無主物)、日本を含めた多くの国では魚を捕まえた時点でその人が自由に使用・収益・処分する権利を持つことになっています。こうした野生生物資源に対しては、市場機構は十分に役に立ちません。かといって誰でも自由に好きなだけ魚をとってよいことにすると乱獲が生じ、その海は疲弊してしまいます。つまり、魚類など明確な所有権が設定できない資源に対しては、所有権制度以外の制度、すなわち市場機構以外のメカニズムが必要となるのです。では、古くから漁業が盛んな日本ではいったいどのようなルール(制度)が発達してきたのでしょうか?
山川藪澤公理
漁業制度に関する日本最古の記録は、西暦645年の大化の改新の後に発布された、大宝律令にさかのぼります。そこには「山川藪澤之利公私共之(さんせんそうたくのりはこうしこれをともにす)」という規定があります。これは、山、川、やぶ、さわ、海、などの資源は基本的に誰でも自由に利用してよいということです。
当時こうした政策が採られた背景には、以下のような事情があったとされています。大化の改新後、唐の律令制を模範とした日本政府は班田制を公布し、田租(税)に依存する国家体制を採用しました。しかし当時の農業の発達段階においては、班田百姓にとって田租の負担はあまりに大きく、班田のみでは生活維持が困難であったのです。その結果、戸口の不正や百姓の逃亡離散、空地の開墾など、班田制の基盤を揺るがすような事態が多発しました。よって、班田百姓の生活維持のために、生活の補充財を得る場として山川藪澤を開放し、同時に利用者達が自主的にその管理・持続的利用をはかることになりました。このとき、海の資源は資源利用者が自分達で守っていく、という我国制度最大の特徴が生まれたのです。この理念はその後の政権にも受け継がれ、たとえば鎌倉時代に制定された御成敗式目(1232年)の中での漁業に関する規定としては「一 用水山野草木事 法意ニハ、山林藪澤公私共ニ利ストテ自領他領ヲイワズ、先例アリテ用水ヲモヒク」とあり、上記の山川藪澤法理が受け継がれていることがわかります。
江戸時代
江戸時代に入り封建制が確立すると、村ごとに税を徴収する「村高制」が敷かれ、村が一つの行政単位となります。当時の漁業に関わる制度には、律令要略の「山野海川入会」の項に「一 磯猟は地附根附次第也、沖は入会…」という規定があり、その意味は以下のように説明されています。当時、地附根附とよばれる地先の沿岸海域は村の一部とみなされ、多くの場合その村によって独占的に支配・管理されていました。こうした仕組みを総百姓共有制漁場と呼びます。そこでは沿岸水面の管理権が村そのものに帰属しており、村における掟(共同体規制)に従って村人たちが魚をとっていました。この地元漁村による沿岸海域の管理という理念は、その後形態を変えながらも現在の共同漁業権に受け継がれていきます。一方で「沖」に関しては、「入会」、つまり領主や村の所属にかかわらず自由に操業することができました。ただしこの「沖」は現在の沖合漁業を意味しません。当時の技術水準からいって、その海域は現在の沿岸漁業にほぼ含まれるものと考えられています。
江戸中期(元禄・享保時代)頃になると、人口増加と漁業技術の進化により、大地引網や定置網などの大資本・多労働量投下を必要とする漁業が出現します。その結果、沿岸海域の一部は津元・網元などと呼ばれる上層漁民に独占されることになります。同様に沖においても、地域別又は業種別に中世ヨーロッパのギルドのような独占的同業者組織が結成され、この体制は貢納によって領主により保護されていました。そこでは同業者らが資源の保護・培養の為に自主的に考案した協定が発達し、対象魚種や漁具・漁期・漁法などの細かいルールを記した文書が残っています。淡路島などでは魚付林の保護制度があったという記録も残っています。
明治維新
明治維新の後、近代国家を目指す明治政府は身分制の撤廃、職業の自由化等の近代化政策に伴い、民法・刑法・行政法など様々な分野で欧米制度の導入を進めました。そして明治8年には、海面官有宣言及び海面借区制を発表しました。この海面官有宣言・借区制の内容は「海面はもともと国の所有に属しており、天皇の特許により漁業を行いたい者は借用料を上納すべし」というものです。これは中央政府が有料ライセンスによって海洋生物資源への負荷(総漁獲圧)を管理し、資源利用者一般は各自の経営合理化のみを図るという、いわばトップダウン型の資源管理制度と捉えられます。こうした資源管理制度はこれまで日本において発達してきた「海の資源は利用者が自分達で守っていく」という制度とは異なり、欧米諸国において一般的に採用されている制度です。つまり、明治8年の海面官有宣言及び海面借区制は、欧米型の資源管理制度を日本漁業に取り入れた試みとして捉えることができるのです。
その結果、全国で大量の出願が集中し漁場は大混乱に陥りました。当時の漁業生産の変化を見ると、非常に興味深いことがあります。それは海面官有宣言の前年である明治7年から明治14年の7年間に、漁獲が約3倍に伸びているということです。綿網の導入や漁船の動力化など、漁業の技術革新がおきたのは明治30年前後ですから、この劇的な漁獲増の原因は、主に大量の新規参入によるものと考えられます。そこから、以下の3つの事が推測できます。第一に、それほど大量の新規参入が生じたということは、江戸期には漁師という仕事が儲かる仕事だと考えられていたということ、つまり充分に大きな漁業利潤が存在していたということです。そして第二に、約3倍という急激な漁獲増が可能ということは、江戸期の制度の下で資源の保護が機能していたということです。そして最後に、急激な漁民の増加、つまり漁獲圧の上昇による漁獲の急増は、乱獲・資源枯渇をもたらす危険があることです。
結果的にこの爆発的な生産増は一時的な現象に終わり、その後漁獲は急速に低下しました。そして各地で漁場紛争と乱獲が激化し、血で血を洗うような大変な混乱が生じたといわれています。よって明治政府はその対応策として明治19年に漁業組合準則を制定しました。これは今の水産業協同組合法(漁業協同組合の設置等に関する法律)の前身で、各地域において漁民による団体を結成させ、その団体の設定するルールにより秩序と資源の回復を目指すというものです。つまり日本に古くから存在していた、海の資源は利用者が自分達で守っていく、という理念に基づいています。
まとめ
以上のように、明治維新後近代化を進める明治政府は、欧米型の資源管理制度の導入を試みたものの失敗に終わり、日本型の「資源利用者による資源の保護・培養」という制度へ回帰しました。
このように、ある制度をまったく異なる制度・文化を有する社会に導入し、その結果が失敗に終わった例は世界でも多数報告されています。自然資源の管理制度に関する近年の研究では、対象地域の自然環境・政治構造・利益の分配構造などが、その制度の合理性や効率を理解する際に重要な役割を担っていることが明らかになってきました。また漁業制度研究においても、被植民地等に欧米型の漁業制度を導入した結果、漁業秩序が破綻して資源が減耗したという報告があります。つまり、ある制度の地域的・歴史的な要素(institutional context)は、制度の生成・変化を理解する際に、さらには新政策の実効性を占う上でも、決定的な重要性を持っているという認識が、制度研究の背後にあるのです。
次回は、西洋からの輸入ではない日本独自の法律としての漁業法が1901年に制定され、第二次世界大戦の敗戦・民主化を経て現在の漁業法へと至る過程をご紹介したいと思います。 |