MADE IN 1940's
黎明期に活躍した スポーツフィッシャーマンたち
文/中島新吾(なかじましんご)
共通のルールに則ったソルトウォーター・スポーツフィッシングの系譜がカタリナ・ツナ・クラブやIGFAの創設に始まるとしたら、そういったスポーツとしてのフィッシングを楽しむためのフネに対する試行錯誤もまた、同じ時代に始まったと考えるべきだろう。それまで、フネでの遊びのワン・オブ・ゼムとしての位置付けであったものから、フネに乗る第一の目的となったフィッシング。それはスポーツフィッシングのために建造されるフネが、やがてプレジャーボートのなかで確固たるひとつのカテゴリーを形成するにいたる物語の始まりでもあった。
1940年代のConsolidated42。後に登場するモデルと違い、キャンバスのドジャーに囲まれたフライブリッジが装備されている。コックピットのスターボード側にある支柱はジン・ポールで、この先端に付けられた滑車で魚を引き上げる。見張りのためのマストや、先端を竹としたアルミ製のスプレッダー付きアウトリガーなども装備。
スポーツフィッシング黎明期
戦争というものは、どんな基準で考えても積極的に肯定すべきものではない。しかし、それが“兵器開発”という大義名分で、あらゆる乗り物の発達を促してきたことは、悲しいことではあるが事実だ。そして、そうやって作り出された乗り物が、現代社会における利便性に貢献していることもまた、否定できないことではある。旅客機や自動車といった日常的な(そして一見平和な)乗り物の基礎技術は、そのかなりの部分が戦争によって発達したものといえる。
1948年、John Rybovichによって製作された“Miss Chevy 2”。Rybovichは現在もセミカスタムの高級コンバーチブルを製作するビルダーである。34フッターながら25mph(約22kt)のスピードを誇り、後にはエンジンを2基掛けとして30mph(約26kt)も可能となった。フライブリッジやファイティングチェア、冷凍庫やフィッシュボックスを備え、ジン・ポールも装備
全幅11〜12フィート
フィッシングを目的としたものに限らず、当時のクルーザーは基本的にディスプレイスメント・タイプ(排水量型)だったが、1940年代も後半に入るとハード・チャインのセミディスプレイスメント・タイプ(半滑走型)も現われている。もちろん、小型のボートの中には完全なプレーニングをする高速なものや、3ポイント・ハイドロプレーンのようなものはあったのだが、少なくとも居住区が設けられたフネは、やはりディスプレイスメント・タイプやセミディスプレイスメント・タイプが主流であった。全長は30〜から40フィート強というところで、やはりある程度の長期釣行を考えられたものは30フィート台後半から40フィート台というあたりに落ち着くようである。これは、現代のスポーツフィッシャーマンやコンバーチブルにも通じるところだが、人間の大きさがそれほど変わらないのだから、居住区の大きさも(特にバースの長さ)、それほど変わらないと考えれば、なんとなく納得はできるところである。
必然的な居住区重視
フネのスーパーストラクチャーは、かなり現在のモデルに近い。前半はトランクキャビン・タイプの居住区(デッキ上にキャビンの屋根を突出させたものをキャビントランクといい、そうやって造られているキャビンをトランクキャビンという)とし、ほぼ中央にはデッキハウスが設けられる。ここは後部開放型で、船尾のコックピットまで通じるパイロットハウスとするアレンジと、コックピットとの間にバルクヘッドを設けてサロンとする場合の2通りあったようだ。ただ、デッキハウス内部をサロンとするスタイルは後半になってから現われたもので、多くはブリッジエリアにハードトップを取り付けたような、後部開放型であったようである。 船尾には当然のことながらフィッシングのためのコックピットが備わるわけだが、フネの全長から考えると、かなり小さかったというべきだろう。特にこれは40フィートクラスのモデルにいえることである。もちろん、40フッターでさえ全幅が11フィートとか12フィートといった細身の船型だし、多くは船尾が少々絞り込まれた平面形を持つフネだったから、幅については現代のものと比較にはならないが、前後方向についてもかなり短い。むしろ、この時代のフネでは30フィート台の小型のものの方が大きなオープンエリアをもっていたようである。
フライブリッジの登場
1940年代に登場したいくつかのスポーツフィッシャーマンは、それまでになかったスタイルのヘルムステーションを設けるようになる。それがフライブリッジだ。高いところから魚影を探したほうが見付けやすいのは当然だし、もしヒットした場合にも、ラインの向こうで右に左に走り回る魚に合わせてフネを動かすためには、高いところに操縦装置があったほうがいい。それでいくつかのスタイルの(そして最終的には現代のモデルにつながる)フライブリッジが設けられることになる。ただ、最初はその操縦系統の取り回しには苦労したようで、いくつかのフネはデッキハウスの屋根を貫通するステアリングシャフトを使ったりしていたようである。1940年代後期のフネでは、いわゆるハイドローリック・ステアリング(日本でいう油圧ステアリング)を装備しているものもみられるが、それが一般化するまでは、シャフトとギアとチェーンで造られた物理的な(それもかなり複雑な)リンクを経由してラダーを動かしていたのだから、たいへんだったろう。写真のコンソーリデイテッドの42“Mako 3”などは、そういった複雑な操縦装置を避けるため、デッキハウスの上部に、ちょうどヘルムスマンが頭ひとつ突き出したようなスタイルのステーションを備えているが、これも当時は“フライブリッジ”と呼ばれていたようである。もっともこれは主流にはならず、同じコンソーリデイテッド42でも、タイトルカットのようなフライブリッジを装備したものが、後に現われている。
現代につながるエキップメント
フィッシングのためのエキップメントは、現代のスポーツフィッシャーマンに通じるいくつかのものが、この時代から登場してくる。ファイティングチェア、アウトリガー、ロッドホルダーなどは、この時代にある程度の完成をみたというべきだろう。 アウトリガーはそれ以前にもあったようだが、パイプ(たぶんアルミだとは思うが)を組み合わせたもので、かなり重かったようである。しかし、1940年代になると、アルミの1本もののパイプを使い、それが必要以上に曲がらないように、スプレッダーと張線で補強したものが現われている。これは現代の多くのスポーツフィッシャーマンが装備しているものとまったく変わらず、ライボビッチ(そう、現代に続く伝統のビルダーである)が製作したというそれは、アルミパイプにアルミのスプレッダー、張線はステンレスで、先端と根元にはプレキシグラスを使い、軽量で強く、非常に優れた特性を示したという。プレキシグラスというのは、今でいうアクリルのことなのだが、ただのアクリルパイプで強度的に保つとは思えないから、アクリル系の樹脂を使ったFRPだったのかもしれない。当時としては画期的な素材の使用である。また、それ以外にもスプレッダー式のアルミ製アウトリガーは多く、先端に竹を使って弾力を持たせたものはかなり見られる。