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The 25th Annual
SHIMODA 18th-20th July 2003
Japan International Billfish Tournament

Billfish Rhapsody

写真・文:須賀安紀
Story&Photos by Yasunori Suga

一枚の写真が、小説の中の数行の描写が、そして洋上での一瞬の体験が、いつまでも心の片隅に生き続けることがある。
四半世紀を迎えたJIBT(ジャパン・インターナショナル・ビルフィッシュ・トーナメント)は同時に、ビルフィッシングに魅せられた人々の物語でもある。

 

All for Future
新たなステージに立ったJIBT

1. JIBTの歩み
−A history of JIBT

 1978年夏、その年のHIBT(ハワイアン・インターナショナル・ビルフィッシュ・トーナメント)に参加した男たちの、その後の出会いが、今に至るJGFA(ジャパン・ゲームフィッシュ協会)設立の気運となり、翌1979年、三宅島で日本における本格的なビッグゲーム・フィッシング・トーナメントが産声を上げる契機となった。男たちの結束を演出したのは1959年から開催されているHIBTの立役者として知られるピーター・フィジアン、その人であった。フィジアン氏から大西英徳(故JGFA初代会長)、岡田順三(現JGFA会長)に宛てられた手紙が、HIBTでの興奮冷めやらぬ彼らに、大きな啓示を与えたことは確かである。
 『第1回東京トローリング・フェスティバル』と銘打たれた大会には18チーム、60名が参加し、秋山勇のマカジキ37.8kgがJGFA初の日本記録として認定されている。ちなみに同大会でクロカジキと4時間の激闘を体験した丸山博司は以来、毎年の出場を果たし、今夏25周年を迎えたJIBTの表彰式パーティーにおいて、その功績を讃えられている。
 この記念すべき大会が1980年の第2回目からは『東京ビルフィッシュ・トーナメント』と名称を変え、1981年の第3回大会において菅崎清が121.40kg、大会史上初のクロカジキをランディングしている。

 

   そして1985年の第7回大会からは参加者の増加、交通の便、宿泊施設等の関係から開催地を三宅島から下田に移し、名称も現在のJIBTと一新、国際性に富んだ一大イベントへと変貌し、今に至る発展の大きな契機となった。大会の運営もほぼ現在のスタイルに近いものとなったが、当時のJIBT海域区分は『OHSHIMA-OKA』『JUNKO』『AKIKO』『GORO』『FUJIKO』といった5つの海域に分けられていた。
 回を重ねるにつれ、大会関係者の間では、下田を世界の“SHIMODA”にしたいという意識も芽ばえてきたが、当時、まだ多くのビルフィッシャーはハワイのHIBTを畏敬の念をもって語り、実際、HIBTが下田を含めた世界のビルフィッシュ・トーナメントのスタイルと方向性に大きな影響を与えていたことは紛れもない事実であった。
 1987年の第29回HIBTでは松方弘樹をキャプテンとする『多香千代フィッシングクラブ』が日本チームとしてHIBT史上初の優勝を果たし、1998年の第40回HIBTでは神戸の『マウナ・ケアSFC(牛村高明キャプテン)』が日本チームとして2度目の優勝を勝ち取っている。
 この間、下田で開催されてきたJIBTは年を追うごとに、その規模を拡大し、今や名実共に世界トップクラスのビルフィッシュ・トーナメントとして、広くその名を知られるようになった。
 ちなみにHIBTの参加チーム数のこれまでの最高は、1968年第10回大会の87チーム、次いで1988年の82チームとなっている。それに対し、今年度のJIBTはオーナーボート、チャーターボートを合わせ98チームの参加となっている。大会規模がトーナメントの評価を左右するものでは決してないが、その運営とポリシーが明確であったからこそ、今に至るJIBTの隆盛があるともいえよう。
 
 

2.奇跡的な確率のタギング
−mission impossible

 その25周年を迎えたJIBTで今年、新たなステージの幕開けを予感させる画期的な試みがなされた。
 下田沖、ひょうたん南。34°17'N、139°00'Eの洋上で、刮目すべき偉業が達成されたのである。
 船は『アドミラルVI』、そう、あのベテラン前田利幸が率いる『アドミラル・フィッシング・クラブ』の面々がクロカジキへの『ポップアップ・アーカイバル・タグ』の装着に成功したのである。このタグは水深や水温と共に、照度センサーのデータをも蓄積できるアーカイバル機能と、内蔵した時限装置により、設定日時が来ると自動的に魚体から切り離されて(pop)浮上(up)する機能を備えた優れモノで、浮上後に衛星を介してそれまでに蓄えたデータを送ってくれる画期的なタグである。
 JGFAの『タグ&リリース』活動は広く知られているもので、その活動は学術的にも高く評価されているものの、これまでJGFAメンバーによってカジキに打たれた一般的なダートタグやTBFタグ(for only marlin made by The Billfish Foundation, U.S.A.)の再捕例がいまだ報告されていないのが実情であった。
 国内のスポーツアングラーの手によってカジキに初めてタギングがなされたのは1985年8月15日のことである。新島沖で初代JGFA会長、故大西英徳が推定30kgのマカジキに標識放流を実施したのが最初の記録である。以来、昨年までにJGFAメンバーの手によってシロカジキ5、クロカジキ267、マカジキ44の合計316のタグが打たれたが、先に述べたように再捕の記録は一例も報告されていない。

 
  今回、第25回JIBTで装着に成功した『ポップアップ・アーカイバル・タグ』は、研究者のみならず、我々スポーツアングラーにとっても画期的な調査ツールとなることだろう。
カジキの魚体から切り離されたタグは、水面に浮上すると、それまでに蓄積したデータを“アルゴス・システム”によって伝送する。アルゴス・システムとは、環境調査や環境保護を目的とした、人工衛星によるデータ収集システムでCNES(フランス国立宇宙研究センター)、NOAA(米国海洋大気局)、およびNASDA(日本の宇宙開発事業団)によって運営されている。このシステムはGPSもまだ存在していなかった1978年から、すでに20年以上稼働しており、タグから発信した電波の周波数から、その位置を算出することができる。
 ゴーギャンの名画のような、「われわれは何処から来たのか?われわれは何者なのか?われわれは何処へ行くのか?」といった神秘的な言語に満ち満ちたカジキの生態を語るには、私たちはあまりにも無知であることを自覚せざるを得ない。その認識がJGFAメンバーのタグ&リリース活動の根底にある。  今回、静岡県の清水にある遠洋水産研究所の多大な協力を得て実現したこの『ポップアップ・アーカイバル・タグ』のチャレンジが来年1月、そのデータ収集というプロセスに成功すれば34°17'、139°00'に放たれた私たちの夢の軌跡を辿ることが可能となる。それは同時に研究者やスポーツアングラーのみならず、多くの人々に多大な興味と感動を呼びおこすことになるだろう。その意味でもアドミラルFCのキャプテン前田利幸、アングラー前田美乃、リーダーマン石丸益利、タグを打った遠洋水研の岡崎誠の名前と共に、その偉業を可能にした『アドミラルVI』の船上にいたチームメンバーに大きな敬意を表したいと思う。  前日、トーナメントエリアの水温は22.5℃から23.5℃前後と低く、マカジキばかりのストライクであったものが当日は24.5℃から25℃に至る潮を補足することができた。午前11時37分にヒットし、正午前に歴史的なタグを打たれたカジキは今大会初のクロカジキであった。  100隻に及ぶ参加艇。その中で今回『アドミラルVI』の他に、遠洋水研の協力の下、ポップアップ・アーカイバル・タグを装備していたのは『エレベンス』と『ゴールデンベイ』の2艇のみであった。確率の上からも実にラッキーな結果となったが、この幸運が今後のJIBTの希望に満ちた前途を暗示するものとなることを願っている。  

 
 
 
 

3.ビルフィッシャー、そして人々
−Billfisher, and people

 第25回JIBTは初日、推定45kgのマカジキを50lbラインでタグ&リリース、大会2日目推定45kgと35kgの2尾のマカジキを同じく50lbラインでタグ&リリースした『ピンクドラゴン』がトータル415ポイントを獲得し、優勝した。趙げん済の愛艇『ミスリバティー』の勇姿は洋上ではお馴染みだが、1988年の第10回JIBTで団体総合2位をもたらした104.10kgのシロカジキとのファイトは当時、撮影の機会に恵まれた私の心に、いつも新しい。ファインダー越しに窺えたチームの冷静なファイトと、野性味に溢れたランディングシーンがなぜか当時の写真を見るたびにまざまざと甦るのである。15年前!そう15年前のことなのだ。当時彼らはまだ若く、エネルギーが全身に満ち満ちていた。今回、表彰式でトロフィーを受け取る趙げん済の姿は、落ち着きと風格を増し、ビルフィッシャーとしての大成を感じさせるものであった。

 同時期、南紀串本で開催されていたJBTK(JGFAビルフィッシュトーナメントin串本)も好調な釣果に恵まれ、両大会の成功と共に今夏の本格的なトーナメントシーンの幕が切っておとされたのである。
 かつて、そして今も、夢を現実のものとした男たちがいる。1955年、ホテル・マネージャーとして、米国本土のオーガスタからハワイ島にやって来たフィジアンは、ホノルルのワイキキを中心に訪れる旅行者の流れを、少しでもハワイ島に呼び寄せるための“魅力的な何か”を考えていた。3年間のさまざまなリサーチを経た後に閃いたアイデアが“ビルフィッシュ・トーナメント”であった。彼はそれを国際的なトーナメントにし、コナの海を一年中釣りが楽しめる世界的なスポーツフィッシングのパラダイスにしようと考えたのである。クロカジキとシロカジキの判別すらままならなかった彼にとって、極めて初歩的なリサーチ、啓蒙からHIBTの歩みは開始されたわけである。そしてその彼の想いが、多くの人々の共感と熱意を呼びおこし、ここ下田でも、その成果が大きく実りつつある。
 ビルフィッシャーの情熱は世界の海をひとつにするものである。
 無辺に広がる空と海の青さの中で、人々は清澄な心の叫びを感じることがある。逍遙する船上で、神の啓示を得ることもある。
 それらは、いつも心に新しい。
 
 
トーナメント・リザルト
   
Billfish Rhapsody(2003JIBTレポート)
 
 
 
 
 
 
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