BIG GAME POLICY 釣りに対する姿勢 会社案内
 
   
 
BIG BLUE CHASE KAZIKI
 
 
HOME BIG BLUE IGFA、ビツグゲームに関わる組織 日本におけるIGFAの始まり

日本におけるIGFAの始まり

永田一脩

 
須崎に陸上げされたバショウカジキ(1950年頃)
 
私は戦争中1994年(昭和19年)に、強制疎開で家を壊されて大磯に疎開した。それで終戦直後から大礒で投げ釣りを始め、磯釣りに入っていった。漁船で引き釣りもやっていた。勤めは有楽町の毎日新聞社出版局で、新館の一階には傍系会社の東日興業株式会社があった。  
そこに元東海汽船の宣伝部にいた友人の海老名雄二君が勤めていた。その彼のところに二世なのか、アメリカにいたことがあるのか、とにかくアメリカの釣りに関してかなりな知識を持っていた、山内一郎という男が出入りしていた。進駐軍人のロッドの修理をしたり、トローリング・ロッドの試作をしたりしていて、六角竿を製造して輸出しようとしていたことは確かだった。ただ、およそ素性のわからない男で、終戦後よくいたタイプの男だった。  
その男が第一に口火を切って、日本にIGFA(International Game Fish Association)の支部を作ろうと言い出した。その話を、釣りのことをあまり知らない海老名君が私のところにもってきた。私は磯でも、引き釣りでも大物を狙っていたし、IGFAの存在は知っていたので、まず当時の上役で話のわかる出版局長の石川欣一氏に話してみた。石川氏は「いいだろう。お前やってみろ」と言ってくれたので、私は当時の釣り雑誌「水之趣味」の編集長、青山浩氏に相談したら、青山氏が当時東大農学部水産科の教授、檜山義夫先生に話してくれた。ちょうど檜山先生がアメリカに行くところで、先生がIGFAの本部に連絡してこようと承諾してくれた。石川さんは毎日新聞社の後援の承認も取ってくれたので、話はとんとん拍子に進んでいった。

伊豆・須崎の大物漁師、白浜屋(1950年頃)
  海老名、山内、青山、永田、栗本豊爾−日本磯釣倶楽部員で私の磯釣りの先生−その他毎日事業部員も加わっての下相談で、話は次第に大きくなり、金のかかる会だから後援してくれる有名人や財界人にも入ってもらおうと、発起人としての承諾を受けたので、設立趣意書を作る時には、発起人が108名にもなってしまった。
ここで当時の会社情勢をふり返ってみる必要がある。当時の有楽町にはガード下と駅の南側に、バラックの呑み屋、食い物屋、ヤミ物資屋が並んでいる時代で、サラリーマンが自家用車を持てるなんて夢にも思えない時代だった。そんな時代だったから、釣りの夢はいっそう大きく膨らんだのだろう。それで老大家たちも名を連ねてくれたのだろう。事実多くの人が売り食いをしていた時代で、たとえば昔の大金持の赤星鉄馬氏もその一人だった。名優の上山草人さんが、一人しょんぼり有楽町ガード下の呑み屋で、カストリ(アルコール酒)を呑んでいる姿を見たこともあった。
そんな時代のことで、IGFAの規約なども見ていず、一気に夢を実現させようとしたのだったことは、設立趣意書を見てもわかることだ。次にその全文を挙げよう。
 
日本競釣協会設立趣意書
昭和24年10月5日毎日新聞社企画斑作成

釣魚は日本においても古くから独得の技術が発達し、今日では高級な趣味として認められるまでになっております。だからその独自な発展には多くの美点もありますが、また多くの欠点をも含んでおりまして、そのままでは如何にしても国際ゲームに加入する資格が無いのであります。いわば釣りにはたがいに釣り場・仕掛けなどを秘密にする傾向があり、漁師と特別関係を結ぶことを第一条件にするなど、まったく特定の人々が独占的に遊ぶものとなりがちでありました。釣り具にしても名人芸の趣味に落ちやすく、一般性と科学的技術に欠けております。ところがその反面、釣りはまた無統制な大衆的行事でもありまして、季節となれば一時に、しかも一ヵ所に押しかけて乱獲する場合が多く、そのため幼魚までとりつくすこともあり、沿岸、河川、湖沼の魚は、これら愛魚心なき無統制な人々のため、年一年と激減する地方もあります。加うるに毒物放水の防禦も徹底せず、このまま放置しておけば、他日、釣りの楽しみを日本より失うことにもなりましょう。  国際競釣協会(IGFA)は1938年ニューヨーク自然史博物館の方々が、オーストラリアに科学的遠征をなした時が機縁となって、同年グレゴリー博士(Dr.Gregory)が会長となり、ニューヨークに創立されたのでありますが、年齢、性別、人種、宗教の如何を問わず、およそ釣りを愛する者は、スポーツとし、科学的研究の材料とし、また健全な社交として、すべて釣りを通じて交わることが出来る団体でありまして、各国より報告されたレコードは、毎春、年鑑により記録出版されております。戦時中すでに加入した国は、アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、ブラジル、英国、カナダ、チリー、コロンビア、コスタリカ、キューバ、フランス、メキシコ、オランダ、ニュージーランド、ペルー、フィリッピン、南アフリカ、米合衆国であり、地方別にして38地方、加入したクラブが56、その他8ヵ所の科学研究所が参加しております。国際競釣協会はすべてこれら各国の団体が加入するのでありまして、個人的に直接参加することは出来ません。各地方の競魚のレコードは加入団体または国際委員の証明により報告され、それが25名の国際委員の審査を経て、協会に記録されるのであります。日本においては今日まで残念ながら、一つのクラブも加入を許されておりませんが、日本の釣りの技術と競釣のスポーツ精神が、国際水準に達するために、今日、飛躍する必要があるのではないでしょうか。  本会はたがいに日本の釣りと競釣を世界的レベルにまで高まることを主旨とし、これのためには釣り具も国際的基準に相当するものを普及させ、従来の封建的独占を廃して、民主的明朗な国際社交スポーツとなし、国民の保健運動とし、愛魚の方法を認め、また魚族の科学的研究にも寄与し得る組織と指導が必要であります。幸い国際的基準を備えた釣り具の国産品が生産され、一般家庭においても使用出来るようになりました。皆様の御賛同と御指導により、国際レベルに引き上げることは困難ではないのです。  釣りと競釣を愛し、国際親善と国民体育の向上を祈念する大方の士の贊襄を得まして、一日も早くIGFA(国際競釣協会)加入の団体を日本に創立させたい次第であります。
設立発起人代表
 
いま読み返してみると、当時「国際的基準を備えた釣り具」など作られていないし、どうやら山内が下書きしたものらしい。
IGFAを国際競釣協会と訳したことは認識不足もはなはだしいが、それだけの認識しかなかったのだから仕方がない。設立趣意書をだしてから約半年間に幾回となく発起人有志が会合を開いて、やっと創立総会を開くことになった。
期日は昭和25年(1950年)5月10日。場所は有楽町・毎日新聞社新館8階のセントポール・クラブだった。今では出版記念会や受賞祝賀会などが、ホテルの宴会場などで普通に行なわれるが、当時としてはこの発会式は特別豪華だった。そして各会の有名人が集まり、広い毎日新館8階のセントポール・クラブが人でうずまった。
この時誰がどんなことをしゃべったかは、記憶もおぼろげだが、石川欣一さん(毎日新聞出版局長)が一席やったこと、上山草人さん(名優)がわざわざ伊豆の伊東から出て来て、昔、アメリカにいた時に大物釣りで有名になった話を、いかにもうれしそうに話されたのを覚えている。帝国ホテルの犬丸徹三氏、元外交官の堀田正昭氏、淡水魚学者の岡田弥一郎氏、林学者の三浦伊八郎氏などの人々も話をされたと思う。とにかく堂々とした立派な発会式だった。
 
夢のビッグゲームを実現するために私たちが購入しようとしたキャビンクルーザー。

1950年代、伊豆沖でのメカジキ釣り。
 

話は前後したが東大教授の檜山義夫先生は、発会式の前日渡米されたので、その時会長に内定していた東京都知事、安井誠一郎氏のメッセージと、ジャパン・ゲーム・フィッシュ・アソシエーションの申請書を、IGFA本部に提出してもらうことを御願いした。これは檜山先生のおかげで受理されて、後で立派な日本支部設立の仮承認書が送られて来て、しばらくは東日興業株式会社内のJGFA事務室に保管されていたが、のちに東京都庁の知事室に保管してもらうことになった。ただし私はそれを見ていない。そして、それが今、東京都庁知事室にあるのかどうかも知らない。檜山先生の話では、それは正式な支部承認書ではなくて、仮の承認書だといっておられた。
ここに創立発起人名簿を再録するべきだが、その余裕がないので、知りたい方は永田一脩著「巨魚に会う」アテネ書房発行を見ていただきたい。

次に発会式後に決定した会則の大要を挙げておこう。

 
 
     
ジャパン・ゲーム・フィッシュ・アソシエーション会則
     
《第一章 名称及事務所》
第一条
  本会はジャパン・ゲーム・フィッシュ・アソシエーションと称す
第二条
  本会は本部を東京都に置き必要な三地に支部を置く
第三条
  本会は北米合衆国ニューヨーク市に本部を置くIGFAに加入す
《第二章 目的及事業》
第四条
  本会は日本のゲーム・フィッシングを国際的水準に高めて併せて国際親善に寄与することを目的とする
第五条
  本会は前条の目的を達成するため下の事業を行なう
一、
  国際的基準に従うゲーム・フィッシングを日本に紹介し普及させる
二、
  国際親善または同好のゲーム・フィッシングの会を開催す
三、
  本会のレコードをIGFAに報告する
四、
  指定の釣船、船宿、ホテル、旅館と契約し会員のための価格の制定と旅行スケジュールの斡旋をなす
五、
  定期刊行物を発行する
六、
  国際的基準の釣具の普及配布の斡旋をなす
七、
  愛魚の精神を広める
八、
  日本における魚族の科学的研究に協力し本会の目的を遂行する
《第三章 会計》《第四章 役員》《第五章 会議》は略す。「巨魚に会う」参照のこと
《第六章 会員》
第二十一条
  本会会員を次の二種とする
一、
  普通会員 普通会員は入会金一千円を納め会員バッジならびに出版物の配布を受ける会費年鑑一千二百円を納める、ただし二期分納を妨げない
一、
  特別会員 特別会員は本会に対し金一万円以上寄付したるもの、ならびに本会に功労ありたるものを特別会員とする、ただし法人の加入を歓迎する
   
(以下略す)
 
 

名誉会長 GHQ外資導入部長 F.べーカー中将
会長 東京都知事 安井誠一郎
副会長 日本郵船副社長 生駒実
副会長 毎日新聞社 黒崎貞治郎
委員長 毎日新聞社出版局長 石川欣一
技術委員 栗本豊爾、佐藤垢石、佐藤玄三郎、青山浩、永田一脩、平岡養一、山県爲三、山内一郎
以下、出版委員、渉外委員、総務会計委員名は略す(「巨魚に会う」参照のこと)。

頭でっかちの看板倒れ! (の見本のような)人事である。間もなく会長は元外交官だった堀田正昭氏に変わった。これは青山氏の推薦によってだったと思うが、当然のことだろう。「目的及事業」に「国際的基準の釣具の普及配布の斡旋をなす」と書かれているが、これは理想で、とても国際基準の道具が簡単に手に入る状態ではなかった。まして配布、斡旋など出来るはずはない。

I釣り船、船宿、ホテルの契約、斡旋については元東海汽船にいた海老名君が、アメリカ軍の払い下げで、13トン、長さ12メートル、巾2.8メートル、平均時速13ノットのキャビン・クルーザーを見つけてきた。持主は入札で手に入れた若い運転技術者だった。
私たちはその船を見に行き試乗もした。もちろんファイティング・チェアーなどついているわけではないが、60馬力のエンジンが二例についた立派なものだった。船をつけてあった京橋三吉橋際のスター・ホテルも手ごろだったので、クラブ・ハウスにする案もできた。船の使用料は1日1万円、半日(午後より夜まで)7000円も決定した。これは1日ドラム罐1缶(1万円)から割り出した。
さてこの船を運転手と助手一名ごと買うことにはなったが、実行には難行した。JGFAには金はない、東日興業も左前だ、最後に毎日新聞社が房州方面との海上連絡に使えるので、買ってもいいということになった。そんなことでもたもたしている間に、東日興業がつぶれてしまった。海老名君は元の東海汽船に帰ったが、総務会計委員がばらばらになり、中には自身の身のふり方を考えなければならない人も出て来て、会どころではない。
 
1950年代伊豆須崎の漁村風景。

さて創立総会後に入会金と会費を払って、会員証をもらった人が幾人いたろうか。1日1万円を払って釣りに出ることは、売り食い時代には出来ない相談だった。これは、まさに戦後のインテリ釣り師の一場の夢だったといえよう。冒頭の写真が、当時購入を計画していたキャビン・クルーザーである。

1950年ごろの参考書
一生のうちで一尾でいいからカジキを釣りたい、というのが夢だった。そして釣った魚の魚拓をとる。そのために大判手漉きの巾1m、長さ2mの和紙を、6枚以上常備していた。

当時の私たちの夢を掻き立てたのはヘミングウエイの「老人と海」だ。それは1952年(昭和27年)9月1日号の、「ライフ」誌(国内版)に独占発表された。私はその「ライフ」がほしくて、進駐軍に関係のあった松井翠声氏(本名は五百井栄清、故人)にたのんで手に入れてもらった。彼は錦城中学校の同級生で、活動写真の辯士、司会者として有名だった。
この翻訳は間もなく「文芸春秋」誌に発表された。訳者は福田恆存(つねあり)氏で、そのままが1953年3月にチャールズ・イー・タトル社から、単行本として出版された。
スペンサー・トレーシー主演の映画が上映されたのはその後のことで、それをワーナー・ブラザースの試写室で観て感激した。この映画の翻訳シナリオ(外国映画社発行、黒木川喬訳、英和対訳シナリオNo.3「老人と海」)は、福田氏訳とほとんど同じ誤訳が気になった。dolphinが海豚で、「海豚が食いついた。…鱗に残照を受けて金色に輝きながら……」
 
33フィートのクルーザー、「ミス・マイアミ号」。「江の島トローリング・クラブ」がこの船の下に結成された。
 
ここでいうdolphinとはシイラのことである。wire leaderが針金だったり、etc.。「文芸春秋」発行直後に、同じ大磯町に住んでいたので、私は福田氏宅に参上して、単行本にする時は訂正してほしい、と申し入れたが、初版では直っていなかった。
当時のビッグ・ゲームの参考書は、
The Fishermans Encyclopedia:Stack pole & Heck , New York . 1950の中のOcean Trollingと、IGFA , Organization and Rules , 1950 .
Salt Water Fishing Tackle:by Harlan Major. Funk & Wagnalls Company , New York . 1955などで、それ以上の良書はなかった。
「IGFAの組織と規約」は共同研究者の関口一郎氏(銀座のラムブル・コーヒー店主、磯釣同和会員)が、知人に翻訳させたので、私もそれをコピーさせてもらった
その他にOutdoor Life , Field & Stream , Sports Illustrated , TheFishermanなどの月刊雑誌には気をつけていて、ビッグ・ゲームの記事があると買って、読むようにしていた。その中の二、三は翻訳してもらったりもした。
 

ロッド、リール、ファイティング・チェアー
そして釣り用語のこと

私はまず30ポンド・テストの釣り道具を使うことにきめて、第一番にPenn Senator Reel 9/0を手に入れた。いつ、どうして手に入れたか思い出せないが、1960年前後だったろう。ロッドは国産の手製品は持っていたが、たよりないのでGarciaの30ポンド・テストを、進駐軍の二世で私が教えていた写真クラブのメンバーの一人に頼んで、アメリカから買ってもらった。軍用機に積んで送ってきた、とかいって笑っていた。当時で2万5千円くらいかかった。
最後まで買えなかったのはFishing Chairsだった。手元にGarelick MFG,Co.1967のカタログがあるが、こんな品物はカタログを手に入れるのにもひと苦労したものだった。

 

IGFAの規約を読んでいても、幾つかの分からない用語にぶつかった。たいていの用語はFisherman's Handbook 1955のGlossaryの項を見れば解決したが、難解のひとつはtraceだった。trace=leader , wire leaderと解していいのか、リーダーとトレースを使い分けていることについては、今でも完全にわかってはいない。
もうひとつはdrailで、関口一郎氏が苦心して手製した。一番苦心したのは和船に取り付ける、ダウン・リガーだったらしい。この完全な形がわかったのは、The Lore of Sportfishing:by Tre Tryckare , E.Cagner , David & Charles , Newton Abfot.1977の262頁の図解を見てだった。

トローリングの個人的な動きとジャーナリズムでの流行

1961年(昭和36年)正月に下田・須崎の白浜屋の船でブリ釣りをしたのが、私のビッグ・ゲーム・トローリングの始まりだったろう。白浜屋は大物釣りが好きで、一人でカジキを追っていた。彼のことは「巨魚に会う」の「白浜屋が大カジキをバラすこと」に書いた。関口氏とよく彼の船に乗った。この前後に関口氏と五島昇氏に会って、氏のフィッシング・クルーザーを見せてもらい、写真も撮影させてもらった。おそらく当時としては唯一の完備したフィッシング・クルーザーだったろう。アメリカで買って持ってきたという話だった。
この頃、日本磯釣倶楽部の三谷嘉明氏と小島豊三氏(故人)も、ビッグ・ゲームを志していた。1955年以後は小島氏と私は全日本磯釣連盟で、いっしょに磯釣りの会の仕事はしたが、トローリングを共にしたことはない。
小島氏は1964年、ハワイに行って110ポンドのバショウカジキを釣っていて、その時の様子を6月19日号「日刊スポーツ」紙上に書いている。このハワイ行は、オリムピック釣具の植野裕充氏が、飯野トラベルと協同して、「ハワイを釣ろう」という企画で催したものだった。いずれにしても、これは外遊釣りの最初であり、日本のビッグ・ゲームの釣り始めでもあろう。
新聞紙上の釣り記事で、ビッグ・ゲームを取りあげるようになったのは、1962年(昭和37年)ごろからで、1963年の「サンデー毎日」4月28日号には、「今週のインタビュー」欄に、東京電力社長、木川田一隆氏が掲載され、IGFA日本代表のことも書かれている。
1962年(昭和37年)6月22日の東京中日新聞には、「豪快スリル満点トローリング、永田一脩氏に聞く紙上入門」があり、同年8月12日の毎日新聞夕刊には、「脚光をあびる大物つり、大魚にいどむ野望」の座談会記事がある。出席者は檜山義夫、福田蘭童(故人)、関口一郎、永田一脩の諸氏。

また、確か、1963年(昭和38年)7月号から、翌年の4月号に渡って、「水之趣味」誌上で「基礎作りに入った−日本のトローリング−これからの課題」の下に、関口一郎氏が中心になって座談会をやっている。出席者は橋元栄久、安光宏、関口一郎、三木貞守、鈴木実の諸氏である。釣り具、船、餌、釣り方に渡って、かなり細部に渡って話し合っている。

この前後にM・ラーナー氏をのぞいて、3人の外人釣り師が日本に来ている。一人はMiss.Farringtonで、1957年4月1日に中日新聞主催で、中日ホールで「ビッグ・ゲーム講演会」を開いている。私も出かけて写真もとっているが、話の内容はまったく覚えていない。
1963年にはマイアミのジョン・Kホワード教授とソルター氏が来日して、名古屋大学の田村保教授のお世話で、全磯連で講演をしてもらっている。その様子が機関紙「全磯連」4月号に発表されている。私は私用で出席できなかった。

カジキやマグロの釣り場については、漁業関係書や下田、大島などでの聞き込みなどで、かなりな苦心をして情報を集めた。また南海区水産研究所に回遊地点と季節の問い合わせなどもした。その時は中村広司博士からお返事などを戴いた。

 
Miss Farringtoその人。
 

浮き沈みのトローリング・クラブ

トローリング・クラブを作りたい、と思う人は多かった。伊藤昌介氏もその一人だったが、彼の計画は成功しなかった。今どうしているかは知らない。
小菅文雄氏に出合ったのは1967年(昭和42年)2月4日だった。彼は他の人と違って、漁師を職業としていた。20代からトローリングの夢を持っていたが、10年目に33フィートのフィッシャーマンズ・クルーザーを自分で作った。設計は専門家にしてもらい、一年かかって出来上がったのが「ミス・マイアミ号」だった。私は歯科医の浜名信也博士を彼に紹介した。浜名氏が仲間を集め、私も関口氏などをさそって、「江の島トローリング・クラブ」が出来上がった。大島に行ったこともあり、ヒラマサなどを釣ったが、ついにカジキには出合えずにしまった。現在の小菅氏はどうしているか知らないが、彼のビッグ・ゲームに対する熱意は、今でもおとろえてはいまい。

  「江の島トローリング・クラブ」よりも一足早く、「東京オーシャン・クラブ」が誕生している。1963年11月に社長の川口保雄氏から案内状がきている。そして翌年2月7日の「デイリー・スポーツ」紙には、「スケールの大きな大物釣り」という見出しで、今月中に進水という記事が出ているが、どうもビッグ・ゲーム・フィッシングのあり方を、知っている人とは思えない点が多い。新聞記事によると、社長は淡路の網元で宝幸水産に所属する漁業主で、インド洋から南太平洋でマグロ漁業に活躍していたという。家業を弟に任せてのレジャー産業への進出だった。しかし、「江の島トローリング・クラブ」が誕生したころに、このクラブはどうやら立ち消えになったようだった。その後の消息を聞かない。
 

「日本トローリング・クラブ」は、小説家林房雄氏(故人)を中心に出来たクラブで、「ラ・メール号」を作って活躍した。林氏がトローリングを始めたきっかけは、私が大島元町の忠兵衛丸で、タイ釣りに案内したのに端を発している。それでラ・メール号の船長には忠兵衛丸の弟が乗り込んでいた。正確な進水日、発会日は知らないが、1965年ごろから活動し始めたと思う。林氏歿後のことは明らかでないが、忠兵衛丸に聞けば様子がわかるだろう。
「下田トローリング・クラブ」の発足は1966年で、理事長・星野直樹(発起人代表・東急国際ホテル社長)。発起人に木川田一隆、五島昇氏の名があるから、明らかに五島氏のクラブである。その他に私の手元に案内書があるのは「伊豆南海釣クラブ」、所在地、南伊豆十浦、伊豆南海観光株式会社、釣クラブ、荻原春樹というのがあるが、その後のことはわからない。もうひとつは、「伊豆小笠原諸島釣クラブ」で、「内外タイムス」1973年4月27日号に記事が出ている。個人会員入会金50万円也というのは、どうかと思うし、その後のことを知らない。

※この文章は1984年当時、私(須賀安紀)が編集・発行していた季刊誌「GAME FISH & BLUE WATER」に、『日本におけるIGFAの始まり』として連載して戴いた中の一文である。1939年6月7日、アメリカ自然史博物館で開かれた会議の中で正式に誕生したプレジャー・フィッシングの普及、振興を唯一の目的とするIGFAが、当時の日本にどのような形で入ってきたのかは興味深いものがある。永田一脩氏は1988年4月9日、84歳でお亡くなりになられたが、その前年、遺作となってしまわれた『江戸時代からの釣り(新日本出版社)』という大著を上梓されているので是非とも御一読願いたい。

 
IGFA、ビツグゲームに関わる組織
   
IGFA その組織と歴史について
日本におけるIGFAの始まり
 
 
 
 
 
 
Copyright (C) 2006 HATTEN-SYO All Rights Reserved.