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IGFA その組織と歴史について
 
釣りのスポーツ倫理に関心を持つアングラーが、自身のフィッシング・レコードの保存や管理に意欲的になるのは当然のことである。そこで大きくクローズアップされるのがIGFA(International Game Fish Association)という団体である。
IGFAとは1939年6月7日、アメリカ自然史博物館で開かれた会議の中で正式に誕生した、プレジャー・フィッシングの普及、振興を唯一の目的とする団体である。副会長を務めていたヘミングウェイや、役員として活躍した著名なアングラー達が、この組織を世界的なものとした。IGFAの活動のひとつに、同一ルールによる世界レベルでの記録保存という仕事があるが、これは三つのカテゴリーにわたって、淡水、海水双方のレコード・キャッチを認証発表している。三つのカテゴリーとは『オール・タックル』『ラインクラス』及び『フライ・ロッド』のことである。オール・タックル・カテゴリーは、60kg(130ポンド)テストまでのライン・サイズで捕獲した各魚種の最大のものだけを対象とし、ライン・クラス・カテゴリーは、1、2、4、6、8、10、15、24、37、60kgテストといったライン・クラスに分けられるが、それぞれのクラスの最大魚が認定される(ただし、魚種によってライン・クラスの適応範囲が異なる)。フライ・ロッド・カテゴリーのレコードは、ティペット強度によって分類される。すなわち、1,2,4,6,8kg(16ポンド)テストといったクラス分けである。さらに、IGFA5,10,20対1クラブという種目もあるが、これらはライン強度のそれぞれ5倍、10倍、20倍の重量の魚を釣った場合に認定される。そしてこれらの記録は、全て一定のルールにのっとって釣られたもののみが対象となる。IGFAルールとは“使用可能なタックル”ラインの強度”“リーダーの長さ”“ルアー及びベイトにつけるフックの数、型、及び位置”“レコードを提出する際の注意事項”など、多くの細部に渡って定められている。フィッシング・ラインのテスト表示等には、こういった背景がある訳である。  
 

では、そもそもIGFAとは?
まずその設立当時からの歴史を辿ってみよう。

1939年の創立以来、IGFAの目的は不変であるが、協会活動の範囲は、今や世界の多くのアングラーに影響を及ぼしている。
1939年まで、ソルトウォーター・アングラーにとって、世界的に通用する活動規約のようなものは存在しなかった。ただ、幾つかの有名なフィッシング・クラブにおいては、紳士的かつスポーツマン・シップにのっとった規約というものはあるにはあったが、極めて少数のクラブに限られていた。しかも、それぞれのクラブによって、規則にかなりの違いがあった。
当時の著名なアングラーであり、作家でもあったフィリップ・ウィリーは次のように語っている。
「……良い競技を行なうためには正確なルールが必要だ。しかし、オーシャン・フィッシングには言い逃れや不公平さが横行し、目に余るほどだ。これは例えて言うなら、フットボールの試合で一方のメンバーが11人で、相手方のメンバーが15人で行なわれているのに何の策も講じられていない、といった状況に似ている……」
世界的な規模の、マリン・アングラーのための協会設立の運動は、米国、英国、オーストラリアといった国で活発に叫ばれていた。運動の発端は1930年代後半『ブリティッシュ・タニー・クラブ』のメンバーによるもので、彼らはルールを弁(わきま)えたアングリングのための規則を組織化するための協会を英国に設置しようとした。しかしながら、戦争の脅威が、彼らのプランを立ち消えさせてしまった。
同じ頃、米国ではビッグ・ゲームのパイオニアとして名高いマイケル・ラーナーが、ニューヨークのアメリカ自然史博物館の調査で、オーストラリア、ニュージーランド海域への遠征隊を結成するのに多忙な日々を送っていた。彼は英国のタニー・クラブの案を耳にし、オーストラリアに到着するや優秀なアングラーの一人であるクライブ・フィースを訪ね、その案について議論を重ねた。
「世界的な見地に立ったアングリング・ルールを定めるのは、アメリカ人が望ましい」と述べたのはフィース自身であった。
それは、オーストラリアとその"本国"意識のある英国とでは、ありとあらゆる事でもめていた−フィッシング・ルールについてでさえ−当時の感情から、フロリダやロングアイランドのアングラーの偉業をよく知っていたフィースは、そんな米国人が作るルールならば、英国やその植民地の住人も受け入れてくれるだろうと考えたのである。
オーストラリア、ニュージーランド遠征隊のメンバーであったウイリアム・キング・グレゴリー博士は、米国に世界的規模のスポーツ・フィッシング協会の本部を置くのはどんなものであろうかという話を耳にした時、彼は何としてもこのアイデアを実現したいと思った。同時に彼は、そういった協会と博物館とを合併させるのは可能だと提案した。アングラーの協会に対する関心と、協会が博物館(科学者)に対して提供できる情報が、両者の関係をより密接なものにする、と彼は考えたのである。
当時、自然史博物館では本格的な調査船を持ちあわせていなかったため、ゲームフィッシュの研究の機会は非常に乏しかった。そんな状況の中で、マイケル・ラーナーが遠征隊を組織し、リーダーシップをとってケープ・ブレイトン、ビミニ、オーストラリア、ニュージーランド、エクアドル、ペルー、そしてチリと調査旅行をしたことは、魚類学者への重要な手本となった。セイルフィッシュ(バショウカジキ)、ブルーマーリン(クロカジキ)、ソードフィッシュ(メカジキ)、ブルーフィン・ツナ(クロマグロ)といったビッグ・フィッシュは、科学者にとっては手に入れにくい魚種であったので、ラーナーの釣ったこれらの魚は、生物学、養殖法などについて貴重な情報を与えるものとなった。

発足初期の頃
オーストラリア、ニュージーランド遠征隊が米国に戻って後、著名なアングラー達やフィッシング・クラブ、釣具製造業者に宛て、マリン・アングリング・クラブの国際的組織の創設について意見を求める手紙が書かれた。手紙に対する反応は快いものであった。
1939年6月7日、IGFAはアメリカ自然史博物館において正式に発足した。出席者はグレゴリー博士(初代会長となった)、マイケル・ラーナー、著名なアングラーであり作家でもあったヴァン・キャンペン・ハイルナー、フランチェスカ・ラ・モンテ、その他、遠征隊に参加した科学者達であった。彼らは、直ちにアングリングの指針と、世界的な記録になり得る釣魚の必要条件を制定した。そういった記録は『フィールド&ストリーム』誌や、自然史博物館の会報に、18年間の長きに渡り発表され続けた。
彼らは、同時にIGFAの活動と目的について、世界中の魚類学会やフィッシング・クラブに正式に通達を行なった。そして、翌1940年1月までに、科学団体が2つ、メンバー・クラブが10、海外代表者も12名が選ばれた。1948年までには、科学団体が10、メンバー・クラブが80にまで増え、IGFAの海外代表者も世界41ヶ所に置かれるまでに発展した。<br>
 オーストラリアのクライブ・フィースは、IGFAの初めての海外代表者となり、他には、ナイジェリア、ニュージーランド、バミューダ、バハマ、チリ、コスタリカ、キューバ、ハワイ、メキシコ、プエルトリコらの代表がこれに続いた。
クラブ・メンバーに加入した初期のクラブには、カタリナ・ツナ・クラブ、マイアミビーチ・ロッド・アンド・リール・クラブ、ロングアイランド・ツナ・クラブ等があった。
初期の役員の中には、アングラーであり偉大な作家であるアーネスト・ヘミングウェイがいたが、彼は1940年から1962年に亡くなるまで副会長を務めた。
マイケル・ラーナーは、IGFAの財政上の権限を発足当時から握っていた。そして、グレゴリー博士が自然史博物館を1944年に退任した際に、ラーナーは会長の任を継いだ。その後の数年間で、IGFAの精神及び記録保存の活動は国際的な規模にまで拡がった。
マイケル・ラーナーは、彼個人の善意と献身とによってIGFAの地位を高いものにした。また戦時中には、ライフ・ボートやライフ・クラフトに常備するための“サバイバル・キット”の開発により政府から表彰されたこともある。何千人もの人命救助に貢献したそのキットは、軍の標準装備のひとつにもなった。
マイケル・ラーナーの数多くの偉業の中に、1940年代後半に、アメリカ自然史博物館のための海洋研究所を自費でビミニに建設したことが挙げられる。さらに1969年には、彼は海洋調査のためのボートを備えたドック・スペースと、大規模な研究所を新しく寄贈した。
IGFAの評判が高まるにつれ、世界中からの訪問客が、自然史博物館の中にあったIGFAを訪れるようになった。活動が大きくなるにつれ、IGFAはついに本部をフロリダに移すことになった。移転先はマイアミのアルフレッド・エ・デュポン・ビルディングであった。

新しい時代
ブルーフィン・ツナ・フィッシングのパイオニア的存在であった著名なアングラー、ウイリアム・K・カーペンターは、1960年にラーナーによって協会長に推され、1967年には再び手狭となった協会本部をフォート・ローダーデールに移した。この頃までにIGFAは国際的な信頼を得、IGFAのアングリング・ルールと倫理は世界中のアングリング・クラブやトーナメントで採用されるようになった。このことは、IGFAの運動が世界的に定着し、将来への展望に対して多くの賛同者を得たことの証でもあった。
1970年代初期には、ベテランのソルトウォーター・アングラーであるエルウッド・K・ハリーが協会の基礎固めと、各国のアングラーとの結びつきを強固にして、資源に対する個々の問題意識を高めるためにメンバーシップ制度の確立を提唱した。  
スポーツ・アングラーにとって、時代は大きな変貌を遂げていた。1945年版のIGFAの『Organization and Rules』によれば「魚とは海の水それ自体と同様、地球上すべての人々の共有財産である」と述べられているが、200海里問題や、魚族資源の保護育成といった問題が、静かな海を騒がしたことはなかった。しかし、1970年代に入るとそういったさまざまな問題が大きなテーマとなってきた。カーペンターとハリーの指揮の下、IGFAはこれらの問題に本腰を入れて取り組み、レクリエーションとしてアングリングを楽しむ人々に資源保護の重要性を説いたり、ゲームフィッシュの保護、管理にアングラーとして如何に対処していくかといった点を慎重に討議した。  
1973年3月には、IGFAは“教育”“科学”“慈善”を三本の柱とする非営利団体として再出発した。この制度の下では、協会への寄附は、法の認める範囲でかなりの税金が控除された。同時に、IGFAの会員獲得のためのメンバーシップ・キャンペーンが世界中のアングラーに向けて開始された。会員制度の確立は、アングラー同士の情報交換が円滑化されることを意味した。そこでメンバーシップの普及と同時に、隔月会報誌『ザ・インターナショナル・マリン・アングラー』が創刊された。この会報紙には、海洋に関する法律、世界中のアングラーの活動状況、新しい海域での主要な調査結果及びタギング・データ、その時点までの世界記録、IGFAの活動及び各種決定事項が載せられた。  
そして、健全なレクリエーションとしてのスポーツ・フィッシングを如何に後世に残すかが、今、IGFAの大きな課題となっている。なお、1960年から1975年は、W.K.カーペンターが会長職にあり、エルウッド・K・ハリーを経て、現在はジョージG・マシューズが同協会会長の任を務めている。その間、本部は4度目の移転を果たし、1999年現在はフロリダのダニアビーチに新しく完成したIGFAワールドフィッシング・センターが、その活動拠点となっている。

 

IGFAの主要目的
IGFA Major Objectives

  1. ゲーム・フィッシュ・アングリング、及びそれら魚種の生息環境を研究すること。
  2. 魚種の保存、及びそれらの天然生息環境の保護のために、政府、業界のあらゆる分野に働きかけること。
  3. 魚種の適切な利用、及び保存についての啓蒙促進のために、ゲーム・フィッシュ資料を編集し、全IGFA会員、一般大衆及び政府の科学、法制機関に配布すること。
  4. 将来のゲーム・フィッシング愛好者の数、及びスポーツ・フィッシングの盛衰に大きな影響力を持つ競技会に、プレジャー・アングラーを適切な方法で参加せしむること。
  5. 本団体の専門知識、資料及び目的が、同じような目的を持つ他の団体にとって役に立つと思われる場合、国内、国際ゲームフィッシュ・ゼミナール、及びシンポジウムを援助し、またそれらに参加すること。
  6. ゲーム・フィッシュ・タッギング計画、及びその他の科学データ収集活動を実施、支援すること。魚類学、漁業科学、及びそれらの関連テーマにおいて、指導、研究の中心的な立場をとる科学、教育機関を援助すること。
  7. 公平、一様、かつ倫理にのっとった国際アングリング規正を維持し、普及につとめること。同時にこれらの規則に基づいて捕獲された釣魚についての、ワールド・レコード・データを編集、維持する。
  8. ゲーム・フィッシュのスポーツ・アングリング及びそれらの関連テーマについての国際参考文献を充実し、維持すること。
  9. 一般の使用に供し、その利益をはかるために、世界的レベルのでのゲーム・フィッシングの歴史資料を収集し、維持すること。
 
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日本におけるIGFAの始まり
 
 
 
 
 
 
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