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東京国立博物館所蔵の重文「寒江独釣図」は、1190〜1230年代に活躍した中国の馬遠の筆によるものとされている。そして、この13世紀前半の墨絵に描かれた釣り人が手にしているリールこそ、記録に残る最古のリールではないかといわれている。1967年、プリンストン大学のジョンT・ボナー博士は、この水墨画から、リールは非常に古くから使われていたことを明らかにしたが、中国では絹産業の発達に伴って、早くからボビン(糸巻き)を用いていたため、それを模倣したものらしいとしている。
ただ、リールの起源は、3〜4世紀に求められるとする説もあり、最古のリールをどの時代に求めるかは未だ明らかではない。
現在のオフショアー・スポーツ・フィッシングは、ベイト・キャスティング・リールの発展と共に、その領域を拡大してきた。
そして、ソルトウォーター・ビッグゲームは、リールのドラグ機構の発達と共に、その記録を大きく更新してきたのである。
近代的ベイト・キャスティング・リールは19世紀にケンタッキーの時計職人達の手で発達したものである。ジョージ・スナイダー、ジョナサン・F・ミーク、ジョン・ハードマン、ベンジャミン・C・ミラムといった名工達が次々と優れたリールを発表し、「カタリナ・ツナ・クラブ」を創設したチャールズ・フレデリック・ホルダーやそのメンバー達がフィッシング・テクニックとメソッドに大きな功績を残し、同時に数々の記録を打ち立てたのである。
そして今や、1900年代初頭に確立されたドラグ・システムは、素材と機構に幾多の改良が加えられ、素人でさえ1,000ポンド・オーバーの記録を達成することが可能となった。
ここでは、フィッシング・タックルにおける20世紀最大の発明ともいえる“ドラグ機構”が誕生するまでの先達たちの足跡を辿ってみたい。 |
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シングル・アクション・リールとマルチプライング・リール
英国では、1750年から1800年の間に、シングル・アクション・リールとマルチプライング・リールの両方が確立された。英国初期のタックル・メーカーのオネシムス・アストンソン(Onesimus Ustonson)は、遅くとも1770年までにリールの広告を出している。このリールには、後にアメリカのキャスティング・リールに付けられたクリック(Click)の原型(Stop, Brake, Checkとも称された)が見られる(図5)。
1814年に発行されたトーマス・ソルター(Thomas Salter)の「The Angler's Guide」には、早期のシングル・アクション・リール(Common Winch)とマルチプライング・リールの図が示されている(図6,6')。 |
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図5:1750年頃、オネシムス・アストンソン社が販売したチェック機構の付いたリール。 |
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図6:トーマス・ソルター著「The Angler's Guide」に紹介されたシングル・アクション・リール(右)とマルチプライング・リール(左)。 |
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図6':1820年代の、ロッドに取り付ける環を持つ“ブラス・マルチプライング・ポール・ウインチ”。 |
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英国では1800年から1850年にかけて、真鍮製のシングル・アクション・リールの生産が盛んになった。一方、マルチプライング・リールは、英国の釣りの対象魚に適しなかったため、次第に生産が減少した。
初期のマルチプライング・リールは、ベイトまたはルアーのキャスティングが目的で考案されたものではなく、ラインを速くリトリーブするために発達したものである。リールのサイズが同じであれば、シングルよりもマルチの方が速くリトリーブできる。サーモンを釣る人は、リトリーブが速いという理由だけでマルチプライヤーを用いたが、増速にギアを使うため、シングルよりも弱いという欠点が分かってきた。そのために、スプールの幅を狭めて、径の大きいシングル・アクション・リールが作られるようになった。径の大きいシングル・アクション・リールは、従来のマルチプライヤーに比べると、同じように早いリトリーブが可能なうえ、強度の点でも優れている。英国では、このようにして現在のフライ・リールのようなナロウ・スプール・シングル・アクション・リールに発展していった。英国におけるマルチプライヤーは不成功に終わったといえるが、後にアメリカのベイト・キャスティング・リールのモデルとされた。
英国リールからアメリカン・リールへ――ケンタッキーとニューヨークの職人達
1620年に英国の清教徒は、メイフラワー号でアメリカ北東部のニューイングランドに移住した。ニューイングランドは、それ以来アメリカ大陸発展の原動力となった。
初期のアメリカの開拓者は、英国を離れる前に使っていたリールを持って移住した。移住した後は、英国から輸入したリールを使用した。それらの英国のウインチ(リール)は、アメリカでも十分に役立ったであろう。事実、英国のリールは、ほぼ1820年代までアメリカの釣り人を支配したといわれている。しかしその後、アメリカにリール・メーカーが生まれると、徐々に英国リールに取って代わるようになった。
アメリカのリールには、ケンタッキー・リールとニューヨーク・リールの2つの流れがある。 |
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ケンタッキーのパリス(Paris)に住むジョージ・スナイダー(George Snyder 1771〜1841)は、時計作りと銀細工を職業とする釣り人であった。そして、バーボン・ウイスキーの原産地として知られるこの地の“バーボン・カウンティ・アングリング・クラブ”の会長でもあった。彼は1810年頃に、ブラックバス・フィッシングに用いるベイト・キャスティング・リールを真鍮で作った。時計を作る職業柄、ギアの知識が深いスナイダーは、精密でスムースに回転するリールの設計に多くの時間を費やした。リールは真鍮と銀で作られ、ギア比は3対1、または3&1/2対1で、ベアリングにガーネット(ざくろ石)を使用したものであった(図7)。
ほぼ同じ時期に、ルイスビル(Louisville)のウォッチ・メーカーのジョン・ハードマン(John W. Hardman)は、ギア比が4対1の精巧なマルチプライング・リールを生産した。ギア比4倍の利点は、ハンドル1回転でより多くのラインを巻き取れるので、より速いリトリーブができることである。ジョン・ハードマンの作った精密なリールは、19世紀のアメリカ・リールの標準となった。 |
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図7:1917年に出版されたドクター・ジェームズ・ヘンシャル(Dr. James Henshal)著「Book of the Black Bass」にあるジョージ・スナイダーのマルチプライング・リール |
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図8:19世紀半ばから製造されたニューヨークのJ. C. Conroy & Co. によるブラス・マルチプライング・リール |
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“ケンタッキー・リール”の初期のリール職人には、フランクフォート(Frankfort)の時計メーカーで宝石商のジョナサン・フレミング・ミーク(Jonathan Fleming Meek)、その弟のベンジャミン・フレミング・ミーク(Benjamin Fleming Meek)、ミーク兄弟の弟子のベンジャミン・ケーブ・ミラム(Benjamin Cave Millam)などがある。彼らはスナイダーのリールをベースに改良し、全て手作りの高品質ベイト・キャスティング・リールを多種作った。これらのリールは、アメリカの釣り人に非常な信頼を得たため、以後、ケンタッキーがリール工業の中心地として発展していった。
一方、ニューヨークでは、1830年にトーマス・ジョン・コンロイ(Thomas John Conroy)がリールやロッドの製造販売を始めた(図8)。また、ジョン・ウォーリン(John Warrin)も真鍮とジャーマン・シルバー(German silver=洋銀=ニッケル・亜鉛・銅の合金)のバランス・ハンドル・リールを作り、ニューヨーク・リールの製造に貢献した一人である。早期のリールは真鍮で作られ、2対1のギア比、ローズウッド(Rosewood=したん)のノブ、ボール・バランス・ハンドル(Ball balance handle=球形のバランサー付きハンドル)が取り付けられていた。
ケンタッキーのブラック・バス・リールは海の釣りには小さすぎるうえ、巻き上げる力が不足していた。そのためにジョン・コンロイのリールは当時の海釣りに人気があった。 |
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ストライプト・バス・フィッシングは、ニューイングランドを中心にして大ブームを引き起こしたが、1800年代の終わりまでその人気は続かなかった。
1885年にニューヨークのウィリアム・ウッド(William H. Wood)は、ロッドとリールを用いて、フロリダで重量42kg(93ポンド)のターポンを釣った。それまでターポンは、その重量と強烈なファイトから“手釣り”の魚とされていたが、次第にロッドとリールで釣られるようになった。それに伴って、ターポン用のロッドやリールが急速に開発された。
1895年までメキシコ湾のターポン・フィッシングは、アメリカだけでなくヨーロッパの釣り人にも注目された。 |
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図10:ジュリアス・ボム・ホーフ(Julius Vom Hofe)のメイン・ギア保持装置とクリック用のツメ(1885年11月17日パテントを取得/パテントNo.330,811)。エドワード・ボム・ホーフ(Edward Vom Hofe)が1883年1月23日取得したパテントNo.271,166の構造とよく似ている。 |
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リール・ピラーに親指でスプールを制動するレザー・サム・ガードが付いた、いわゆる“ナックル・バスター・リール”の一つ。Thomas J. Conroy製 |
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図11:軸受けネジのゆるみ防止に考えられたワッシャーで1889年10月8日にパテントNo.412,685を取得したジュリアス・ボム・ホーフ・リール。このワッシャーは1911年3月21日のパテント図(No.987,676)にも使用されている。 |
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ドクター・ホルダーは、レザー・サム・ブレーキとアンチ・オーバーランニング・ブレーキ(Anti overrunning brake)の付いたリールを用いた。
ブルーフィン・ツナは、フックにかかると素早く海底に向かって猛烈なスピードで深く逃げる習性がある。浅い海で釣る時には、自ら海底に激突して死んでしまうことさえある。ツナがかかると、すさまじい勢いで逆転するハンドルはブンブンとうなりをあげ、考えるだけで身の毛もよだつ危険なものとなる。
淡水の小さな魚や浅い海のストライプト・バス、それにターポン・フィッシングには、サム・ブレーキとバックラッシュを防ぐためのクリッカー(clicker)だけで対処できた。しかし、ブルーフィン・ツナは長い時間猛烈にハンドルを逆転するので、サム・ストールが過熱して指にやけどを負うことが多かった。前に述べた“サム・バーナー・リール”とは、まさに現実のものであった。
このように、釣り人に多くのトラブルを与えるリールは、オフショアー・ビッグ・ゲーム・フィッシングには適していなかった。ドクター・ホルダーは、当然、レザー・サム・ストールを用いたにもかかわらず、しばらく水ぶくれの指に苦しめられた。
ドクター・ホルダーは、ブルーフィン・ツナを釣った翌日から「ツナ・クラブ」の設立を釣り仲間に呼びかけた。そして、2週間後の1898年6月15日に「カタリナ・ツナ・クラブ(Catalina Tuna Club)がアバロン(Avalon)に設立された。それは、オフショアーのビッグ・ゲーム・スポーツ・フィッシングがスタートした記念の日である。
オフショアー・タックルの実験場「カタリナ・ツナ・クラブ」のメンバー達 |
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当時のサンタ・カタリナ島、アバロンの様子――オフショア・スポーツ・フィッシングを語る上で忘れてはならない地。 |
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今日用いられるビッグ・ゲーム・フィッシングのタックルおよびテクニックは、カタリナ・ツナ・クラブの全盛期に、そのほとんどが開発された。アウトリガー、ファイティング・チェアー、ロッド・ソケット、ハーネス、ティーザー、カイト・フィッシング、スキッピング・ベイト、ワイヤー・リーダーなどの全て、そしてメカジキにベイトを与えるテクニック、また、釣魚のリリースを奨励し、ライト・タックルによるビッグ・ゲーム・スポーツが促進された。早期のカタリナは、まさにオフショアー・タックルの実験場であった。 |
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初、ツナ・クラブでは、メンバーが釣りに出ると、クラブ本部に外科医が待機していた。そのように、オフショアー・フィッシングは、未発達で危険なリールから始まったのである。ドクター・ホルダーが釣った翌年の1899年には、C.P.モアハウス大佐(Colonel C.P.Morehouse)が、113.85kg(251Lb)のブルーフィン・ツナを釣り、クラブの記録魚として永くその功績を称えられた。この時に使用したリールは、ドクター・ホルダーが最初に釣ったリールと同じ、ジュリアス・ボム・ホーフ・リールであった。 |
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1898年6月。「カタリナ・ツナ・クラブ」が設立されたばかりの頃。ドクター・ホルダー(写真右から2人目)をリーダーに、彼らは“規定のタックル”でブルーフィン・ツナを釣った。 |
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早期のカタリナ・ツナ・クラブのメンバーには、カリフォルニアのリール・メーカーのジョセフ・A・コックス(Joseph A. Coxe = Joe Coxe)、ニューヨークに住むウィリアム・C・ボッシェン(William C. Boschen)など、ドクター・ホルダーの同僚がいた。ジョー・コックスは、ツナ・クラブの会長に就任したこともあるし、また、1915年11月にアバロンの大火でクラブ・ハウスが全焼した後、焼ける前よりも立派で大きなクラブ・ハウスを翌年の6月に再建した功労者でもある。
ボッシェンはブルーフィン・ツナを釣るために、東海岸のニューヨークから、はるばる西海岸のカタリナ島を訪れた熱心な釣り人で、メカジキ釣りにも熱中し、別名を“ブロードビル・ボッシェン”または“ビル・ボッシェン”ともいわれ、実際、メカジキを最も多く釣ったメンバーであった。ボッシェンとコックスの著しい功績は、リールを改良してオフショアーのビッグ・ゲーム・スポーツ・フィッシングに貢献したことである。
カタリナの有名なキャプテンのジョージ・C・ファーンスワース(george C. Farnsworth)は、愛称で“ツナ・ジョージ”とも呼ばれ、ボッシェンが最初の100ポンドを超えるツナ(51.4kg/113.25Lb)を1911年に釣って以来の親友であった。また、ボッシェンの所有するマベルF号(Mabel. F)のキャプテンとして、リールの改良に協力したアイデア・マンでもあった。 |
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当時のフィッシング・シーンを伝える貴重な写真。 |
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ボッシェンは何よりも釣りを愛していたが、魚がフックにかかって潜り出すと、ハンドルの逆転で手を傷つけるナックルバスター・リールにへきえきしていた。また、体力に自信のあったボッシェンは、常に立ったまま(Standing-up)でファイトし、シートに腰をかけ、あるいはハーネスを着用してファイトをするのはスポーティングではないと考えていた。そのようなボッシェンでさえ、ナックルバスターで指を負傷した被害者であり、誰よりもリールの改良を望む一人であった。 |
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ドラグ・システムの開発――
ウィリアム・C・ボッシェンと彼を取り巻く人々
この時代には、ラベス・ドラグ・ハンドル(Rabbeth Drag Handle)といわれるブレーキング・メカニズムがあった。これは、1902年1月14日にフランシス・J・ラベス(Francis J. Rabbeth)がNo.691,073のパテントで取得したものである(図12)。その直後にエドワード・ボム・ホーフは、スパナー・レンチであらかじめドラグを調整できるユニバーサル・スター(Universal Star)というドラグ機構を開発し、1902年3月20日にパテント(No.700,424)を取得した(図13)。これらのドラグは、ハンドルを手でしっかりと把握していれば、あるドラグ強度のもとでスプールだけが回って、ラインが出て行くものである。しかし、もしもハンドルの保持が緩んで手を放せば、ナックル・バスターと同様に逆回転するという危険があった。
釣り好きのエドワード・ボム・ホーフは、フロリダで95kg(210Lb)のターポンを釣った。また、1905年には15スレッド・ライン(約45ポンド・テスト・ライン)で272kg(600Lb)のノコギリザメを釣った。これらの記録は、エドワード・ボム・ホーフ・リールの最良の宣伝となった。
しかしナックルバスター・リールを少し改良しただけのこれらのリールに満足しないボッシェンは、ニューヨークでリールを試作しては、カタリナで試釣を繰り返した。そしてその度にメンバーから嘲笑の的となっていた。
オフショアー・ビッグ・ゲームの創始時代は、このように、タックルの探究を釣り人自身に課したのである。ニューヨークに帰ったボッシェンは、1910年から1911年の初めに、ジョン・コンロイのタックル・ストアー(当時の住所は、28 John Street, New York)の地下室でドラグ・システムの研究に没頭した。ただし、この場所については、アウトドア用品商のアバークロンビー・アンド・フィッチ商会(Abercrombie & Fitch Co.)の所だったという説もある。 |
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図12:1902年1月14日にパテント(No.691,073)を取得したラベス・ドラグ・ハンドル

図12':後に発売されたラベス・ドラグ・ハンドル・リール。これはオーシャン・シティーの“ガバナー”・ハンドル・ドラグと呼ばれた。
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図14:ジュリアス・ボム・ホーフのパテント(1911年3月21日、No.987,676)で作られたターポンとツナ用のディープ・シー・リール。 |
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ジョン・コンロイは、アメリカの最優秀タックル提供者として、ゴールド・メタルやシルバー・メタルを受賞している。ジュリアス・ボム・ホーフとリールの販売契約をしたジョン・コンロイは、ボム・ホーフの持つ1885年と1889年のパテントに基づくリールの販売を一手に扱った。コンロイ親子三代は、1911年までニューヨークでスポーツ用品の製造・輸入・販売を行った。
ボッシェンの2年に及ぶ研究は、ハンドルが逆転しないで、プレッシャーを与えた状態でラインが出ていくクラッチとブレーキの新装置の開発に結実した。最後の機械工作は、ジュリアス・ボム・ホーフの製作所に持ち込まれ、機械の熟達者、ジュリアス・ボム・ホーフ・ジュニア(Julius Vom Hofe Jr.)の手によって仕上げられた。ようやく出来上がったリールを持ってボッシェンはカタリナに行き、リール・メーカーでクラブ・メンバーでもあったジョー・コックスに新しく考案したリールを見せた。ボッシェンは、パテントやロイヤリティーには全く無欲であった。そこでジュリアス・ボム・ホーフは、急いでパテントを申請した。1911年3月21日に、No.987,676によってこのパテントは認可された(図14,15)。 |
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ボッシェンのこの新しいリールは、側板の内部に断続する3枚のディスク・クラッチを装備し、ハンドルが逆転しない機構であった。ドラグは外部から調整できたが、まだ、スター型のホイールは用いられなかったようである。新しいリールのフィールド・テストは、カタリナの海で繰り返し試みられた。
ブルーフィン・ツナは1904年頃から著しく減少し、1909年にやや回復したが、群れにボートが近づくとすぐに深く潜ってしまうほどナーバスになっていた。ボッシェンのフィッシング・パートナーであったジョージ・ファーンスワースは、警戒心の強いツナを釣るために、1912年からカイト・フィッシング(Kite fishing)を始めた。この方法で、やがてボッシェンとファーンスワースは、新しいリールを使って「古代ローマの海の剣闘士」として知られるメカジキだけを追い求めた。そして、1913年9月に4時間半のファイトの後に、161kg(355Lb)の最初のメカジキを釣ることに成功した。かくして、ボッシェンの考案したリールは、ビッグ・ゲーム・フィッシングの革命的なタックルとして実証され、嘲笑していた多くの人々を驚かせた。
スター・ドラグ・リールの完成――
1,000ポンド・オーバーの対象魚を求めて
スター・ドラグとは、ハンドルの基部に取り付けた星型ホイールを操作して、スプールの回転速度が加減できる制動装置である。スター・ドラグは、魚とファイトしている間でもドラグの調整が容易にできるように、ハンドルに設置された星型の回転輪からその名称が生まれた。このようなスター・ドラグ、またはステラー・ナット(Steller nut=星のナット)と呼ばれるデザインは、ボッシェンに協力したジョー・コックスが発展させたといわれている。ジュリアス・ボム・ホーフは、この新しいリールを生産する時、考案者の功績を称えて“ボッシェン・リール”と命名することを望んだ。しかし、名前が残るのを好まなかったボッシェンは、それよりむしろ発明者を不明にしておきたかった。結果、頭文字の「B」を用いることで折り合いがつき、B-オーシャン・リール(B-Ocean reel)という名称になった。革命的なB-オーシャン・リールは、ハード・ラバーとジャーマン・シルバーを使って作られた。
スター・ドラグ・リールは、スプールに指を当てて制動する必要が無く、ラインの出る時にハンドルが逆回転しなくなった。やけどや打撲傷、または骨折から釣り人を救い、1,000ポンド(約450kg)を超える魚への挑戦が可能になった。まさしく、このリールはフィッシング・タックルにおける20世紀最大の発明といえよう。
“ビル・ボッシェン”と“ツナ・ジョージ”は新しいリールを用いてチャネル諸島(Channel Islands)周辺のメカジキを追い続けた。
1917年にボッシェンは210kg(463Lb)のメカジキを釣り、新たな記録を樹立した。ガンを患っていたボッシェンは1918年にカタリナ島を去って以来、再びこの地を訪れることはなかった。死の前年に達成した偉大なボッシェンの記録は、10年もの長い間、誰も破ることができなかった。釣りのパートナーでありタックルの共同研究者でもあったツナ・ジョージはビル・ボッシェンの遺言によって、最初にボッシェンがメカジキを釣った場所に行き、二人の最愛のボート「マベル号」から遺灰を海に流した。この場所は、永久に知られない二人だけの秘密となった。また、彼には、ボッシェンから1万ドルと愛艇「マベル号」が遺贈された。
西部劇作家として巨万の富を築き、同時に世界を股にかけた無類の釣り師であったゼーン・グレイは、カタリナ・ツナ・クラブのメンバーであり、オフショアー・スポーツ・フィッシングのパイオニアとして知られている。ゼーン・グレイは、2,000ポンド(約900kg)のバショウカジキ(Sailfish)がいると信じて、世界中の海にその幻を追い求めて行った(当時のビルフィッシュの分類は、大洋の魚種の研究が不十分なこともあり、特にビル<吻>を持つ魚については混乱していた)。しかし、このような夢を描くことができたのも、やはり、ウィリアム・C・ボッシェンの革新的な発明の恩恵によるものが大きいといえよう。
※ゼーン・グレイ(Zane Grey)に関する重要な資料は、当ウェブ第1章『巨魚に魅せられた男達』のゼーン・グレイの項を参照のこと。
ボッシェンの考案したスター・ドラグ・リールのパテントが1931年に消滅した前後に、ペン・フィッシング・タックル・マニュファクチャリング・カンパニー(1932〜)とオーシャン・シティー・リール・カンパニー(1930〜1968)が相ついで設立された。二つの会社は、スタードラグ・リールを生産し、低廉な価格で提供した。今なおペン社ではスター・ドラグ・リールの生産を続け、大衆的なビッグ・ゲーム・リールとしてセネターシリーズが愛用されている。
[参考文献]
●The Experienced Angler(by Robert Venables, 1662)●The Angler's Guide(by Thomas Salter, 1814)●The practical Fisherman (by J. H. Keene, 1888)●Book of the black bass(by Dr. James Henshall, 1917) |
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