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Saltwater Game Fishing
ソルトウォーター・ゲーム・フィッシングの軌跡

合衆国におけるソルトウォーター・スポーツ・フィッシングは、1840年代に、ニュー・イングランド(北東部6州の地方名)のストライプト・バス・クラブ(Striped Bass Club)によって確立された。ストライプト・バス・フィッシングが下火になった頃、ターポンのスポーツ・フィッシングが始まった。

Masahiko Kuwata

 
『John Segar's Bait & Tackle Shop』に集まったストライプト・バス・フィッシャーマン達。
photo:Wolrd Record Game Fishes, IGFA
 

黎明期(The Dawning)

初めてロッドとリールでターポンを釣った人物は、ニューヨークのウイリアム・H・ウッド氏(William H. Wood)とされている。
ウッド氏は、1885年3月25日に、フロリダのターポン・ベイ(Tarpon Bay)で、26分30秒のファイトの後、長さ1.55m(5フィート2インチ)、重量42kg(93ポンド)のターポンを釣った。
このことが、各地に広く知れ渡るや、ターポンの手釣り(Handlining)は、急速にロッドとリールのスポーツ・フィッシングに変わっていった。45kg(100ポンド)を超えるビッグ・ゲーム・フィッシュは、ストライプト・バス・フィッシングが半世紀を経過する間に一度も聞かれなかった。
ターポンは、ジャンプする巨大なファイターなので、ビッグ・ゲーム・フィッシングの基となった。しかし、ターポンはインショアー(Inshore)のビッグ・ゲーム・フィッシュであり、オフショアー(Off shore)のブルー・ウォーターに生息するゲーム・フィッシュではない。
オフショアーのディープ・シー(Deep Sea)は、一般に、職業としての漁場と考えられていたうえ、フィッシング・タックルもスポーツ・フィッシング・ボートもなく、手釣りにとどまっていた。ビッグ・フィッシュに限らず、オフショアーのすべてのタイプの釣りを総称して、ディープ・シー・フィッシング(Deep Sea Fishing)と呼ばれていた。
ターポンのテクニックをマスターした人々は、ロッドとリールでイエローテイル(YELLOWTAIL)を釣り、さらに大きなジャイアント・シー・バス(BASS, giant sea)に挑んだ。

ブルーフィン・ツナ(TUNA, Bluefin)

1894年、チャールズ・ビエッテ氏(Charles Viete)は、ターポン・タックルで103kg(227ポンド)のジャイアント・シー・バスを釣った。
ジャイアント・シー・バスに続いて、オフショアーの強大なブルーフィン・ツナ(クロマグロ:TUNA, bluefin)に挑戦する人々が現れてきた。その中の一人に、カリフォルニアのパサディナに住むドクター、チャールズ・フレデリック・ホルダー(Dr. Charles Frederick Holder)がいた。彼は、前記のチャールズ・ビエッテ氏の釣友でもあり、ビエッテ氏が103kgのジャイアント・シー・バスを釣った日に、彼自身は持参したターポンロッドを4本とも折られてしまったという苦い経験の持ち主でもあった。


ニューイングランドのストライプト・バス(ストリッパー、Stripper とも呼ばれている)フィッシングには、写真のようなプラットホーム(Bass fishing platforms)が使われた。
photo:World Record Game Fishes, IGFA
  1898年6月1日、ドクター・ホルダーは、カリフォルニア南西のサンタ・カタリナ島沖で83kg(183ポンド)のブルーフィン・ツナを釣ることができた。 この快挙は、16オンス・ロッド(木や竹のチップ部分の重量が454グラム)と、21スレッド・リネン・ライン(24ポンド・テスト)を巻いた、ナックル・バスター・リールでなされた。ナックル・バスター・リール(Knuckle-buster reel)というのは、ドラッグ機構のないリールで、ラインが出る際にハンドルが逆転するところから、その名のとおり“指の関節を破壊するリール”と呼ばれた。ラインが出るのを止める時は、レザーで保護した親指をスプールのライン上に押しつけて制動しなければならなかった。
このような危険なリールと、24ポンド・テスト・ラインで、ブルーフィン・ツナと3時間45分のファイトをし、その間に船が16kmも引っ張られたというのだから驚く他はない。
ドクター・ホルダーは、ロッドとリールによるスポーツフィッシング以外の方法でゲーム・フィッシュを捕えることを止めさせようと考えていたようだ。彼は、ツナ・クラブを組織することによって、手釣りの人々をスポーツマンに変え、同時に、網漁船による海洋資源減少の被害にも対応できると考えていた。
彼は、ブルーフィン・ツナを釣った翌日から、ツナ・クラブの設立を仲間に呼びかけた。そして、6月15日に設立準備のミーティングが行なわれ、『カタリナ・ツナ・クラブ』が誕生した。これが、オフショアーのビッグ・ゲーム・スポーツ・フィッシングの始まりである。

カタリナ・ツナ・クラブ(Catalina Tuna Club)

『カタリナ・ツナ・クラブ』は、サンタ・カタリナ島のアバロンに本部を置いた。
クラブの目的は、カリフォルニア州のゲーム・フィッシュの保護と、ライト・タックルの使用を奨励し、スポーツとしての意識の向上を図ることであった。ルールは45kg(100ポンド)以上のブルーフィン・ツナに制限された。タックルは、ロッドの重量16オンス(454g)以下、ラインの最大強度24スレッド、そして、平均180m(200ヤード)を巻けるリールと規定された。

 
サンタ・カタリナにあったツナ・クラブの建物。1900年代初頭。
 
スレッドとは、リネン・ラインの単糸のことで、1スレッドを2ポンド・テスト(907グラム・テスト)とした。前記の24スレッド・ラインは、48ポンド・テストラインのことで、現在の50ポンド・クラスといえるが、リールやラインの長さによるハンディキャップが大きかったようだ。
7月の終わりには、24人のメンバーが、24スレッド・ラインで、45kg(100ポンド)を超えるブルーフィン・ツナを釣った。ブルーフィン・ツナがロッドとリールで釣られたことは、国内および世界中のアングラーに注目され、各地に多くのツナ・クラブが結成されるようになった。『カタリナ・ツナ・クラブ』は、それらの指導に努め、ルールやタックルの改良に貢献した。こうして、ライト・タックルによるスポーツ・フィッシングは、多くのクラブに広まっていった。
『カタリナ・ツナ・クラブ』が国際的に認められたのは、ドクター・ホルダーの報道関係への働きかけの努力、それに、世界中の多くの友人達への呼びかけによるところが大きかったという。
ドックター・ホルダーは、21才でニューヨークのアメリカ自然史博物館の館長補佐(assistant curator)の地位についた。また、有名な科学アカデミーのメンバーに選ばれ、『動物学要綱(Elements of Zoology)』の著者としても広く知られた。彼は、カタリナでロスアンジェルス・トリビューン(Los Angeles Tribune)の編集者として活躍し、後に、カリフォルニア・イラストレイテッド・マガジン(California Illustrated Magazine)誌を編集発行した。
ツナ・クラブの本部は、当初、ホテル・メトロポール(Hotel Metoropole)にあった。ツナ・シーズンになると、本部では外科医達が負傷者の帰りを待ち受けた。というのも、例の、“指の関節を破壊するリール”を使用しての大物釣りは、“愉しみ”と“危険”が席を同じくする釣りであったからである。
ホテルの玄関や廊下は、傷の手当てを受ける釣り人や見舞客で賑わうので、“ツナ・ホスピタル”と呼ばれていた。1898年7月12日のコンテストでは、右腕を脱臼して、巨大なブルーフィン・ツナを取り逃がした釣り人もいた。また、87kg(180ポンド)のツナと5時間余りのファイトをして、ギャフにかけた途端に人事不省になった釣り人もいた。指に水ぶくれをつくったり、指の関節を痛めた釣り人は数え切れないほどであったという。
まさに、“苛酷な釣り”ではあった。
前記、ドクター・ホルダーが、83kg(183ポンド)のブルーフィン・ツナを釣った翌1899年、コーネル・モアハウス氏(Colonel C. P. Morehouse)は、113.85kg(251ポンド)のブルーフィン・ツナを釣り、ツナ・クラブの記録魚としての名声を得た。そして、記録となる大きな魚を釣った人に、『モアハウス・カップ(Morehouse Cap)』が、彼自身の手から与えられることになった。
『カタリナ・ツナ・クラブ』は、1901年7月に法人組織となった。

ブルーフィン・ツナとファイトするチャールズ・フレデリック・ホルダー
 

フィッシング・ルール(Fishing Rule)

フィッシングのルールは、タックルの進歩に従って絶えず更新しなければならない。
1906年には、ラインが1スレッド当たり3ポンド(1.36kg)テストに改良された。そこでツナ・クラブは、タックル・クラスをヘビー・タックルとライト・タックルの2つに分けた。
ヘビー・タックルは、ロッドの全長2.06m(6フィート9インチ)以上、チップ部分の長さ1.53m(5フィート)以上で、重量は16オンス(454g)以下、ラインが24スレッドで、ドライ・テスト66ポンド(29.9kg)以下とされた。リネン・ラインは、水を含むと10%から15%の強度が増加するので、現在の80ポンド・クラスに相当する。

 
ライト・タックルは、ロッドの全長1.83m(6フィート)以上、チップ部分の長さ1.53m(5フィート)以上で、重量は6オンス(170g)以下、ラインは9スレッドで、ドライ・テスト26ポンド(11.8kg)以下とされた。これは、現在の30ポンド・クラスに相当する。
1908年には、ツナ・クラブのメンバーであるトーマス・マクドナルド・ポッター氏(Thomas McDonald Potter)が、スリー・シックス・タックル(Three-Six Tackle)を発表した。これを受けて、ツナ・クラブは新しくスリー・シックス・タックル・クラスをルールに追加した。
スリー・シックス・タックル(3−6)とは、ロッドの全長6フィート(1.83m)以上、バット部の長さ12インチ(30cm)以下、ロッドの全重量6オンス(170g)以下、そして、6スレッド・ラインのことである。つまり、6オンス・ロッド、6フィート・ロッド、6スレッド・ラインのことから、一般に“3−6タックル”と呼ばれたのである。これは、現在の20ポンド・クラスである。タックルの進歩は、ルールをより厳格なものにした。

1913年、ウィリアム・ボッシェン(写真左)の記録。358ポンド(136kg)のメカジキ。ガイドはジョージ・ファーンスワース。手前に、使用したカイトが見える
 

名士達(Men of Note)

ツナ・クラブは、19世紀末に組織された英国の『ブリティッシュ・シー・アングラーズ・ソサエティー(British Sea Angler's Society)』と親交を深めていた。
ドクター・ホルダーは、ソサエティーの特別ゲストとして、ロンドンのミーティングに出席している。1908年には、ソサエティーの指導者、フレデリック・アフラロ氏(Frederick Aflalo)がカタリナ島に互恵訪問し、釣りを楽しんでいる。
クラブ・メンバーのウイリアム・C・ボスシェン氏(William C. Boschen)は、断続クラッチと逆転しない新しいリールを発明した。1913年にボスシェン氏は、その新しいリールを用い、カイト・フィッシングによって136kg(358ポンド)のメカジキ(SWORDFISH)を釣ることに成功した。
この時のキャプテンは、ジョージ・C・ファーンスワース氏(Capt. George C. Farnsworth)であった。ファーンスワース氏は、ボートのウェーク(引き波、航跡:Wake)や騒音からベイトを避けるため、1912年の夏にカイト・フィッシング(Kite-Fishing)を始めた。カイトが用いられる以前には、ツナ・スレッド(Tuna sled)と呼ばれるソリを使って、ベイトをボートの側方に離す工夫がなされていた。
ツナ・クラブは、リリース(Release)する際に魚を傷つけないためバーブレス・フック(Barb-less hook)を用いる最初のクラブとなった。
1913年には、パーディー州知事(Pardee)が、サンタ・カタリナ島の沿岸3マイル(約5km)以内の海を「魚類の産卵地域」に指定し、網漁船の操業を排除した。これは、ゲーム・フィッシュの保護を目的に活動したツナ・クラブの注目すべき成果であった。
ドクター・ホルダーは、それから2年後の1915年に、偉大な業績を残して世を去った。

 
クラブのメンバーで著名な人物には、グローバー・クリーヴランド(Grover Cleveland:アメリカ合衆国第22代および第24代大統領)、セオドアー・ルーズヴェルト(Theodore Roosevelt:アメリカ合衆国第26代大統領)、ギフォード・ピンコット(Gifford Pinchot:ペンシルバニア州知事1923〜27、1931〜35、エール大教授、著書に『To the South Seas 1930』、『Just fishing Talk 1936』)、ウィンストン・チャーチル(Winston Charchill)、ハーバート・フーヴァー(Herbert Hoover:アメリカ合衆国第31代大統領)、ジョージ・S・パットン将軍(General George S. Patton, jr.,)などがいた。
作家として有名な釣り人、ゼーン・グレー氏(Zane Grey)は、ツナ・クラブの副会長を務めたことがある。また、『フィールド・アンド・ストリーム』誌の編集に長く従事した釣り人、ヴァン・キャンペン・ハイルナー氏(Van Campen Heilner)も、ツナ・クラブのメンバーであった。
次の1920年代は、ビッグ・ゲーム・フィッシングの黄金時代と言われ、ゼーングレー、ヴァン・キャンペン・ハイルナー、アーネスト・ヘミングウェイ、マイケル・ラーナー(Michael Lerner)などが活躍するのである。
 

<参考図書>
●Salt water Fishing by Van Campen Heilner, Knopf:1953年版
●Salt water Fishing Tackle by Harlan Major, Funk & Wagnalls Company:1955年版
●Salt water Game Fishing by Joe Brooks, Harper and Row:1968年版
●Profiles in Saltwater Angling by George Reiger, Prentice-Hall:1973年版
●World Record Game Fishes by IGFA
●A History of Angling by Charles F. Waterman:1981年版

● 桑田正彦 Masahiko Kuwata
1973年、米国の記録公認団体である“Salt Water Fly Rodders of America(SWFRA)”、“International Spin Fishing Association(ISFA)”、“International Game Fish Association(IGFA)”の会員となる。SWFRAは、フライ・フィッシングによる海水魚の世界記録を認定する団体。ISFAは、スピン・フィッシングによる淡水と海水魚の両方の世界記録を認定する団体であった。この2つの協会は1978年にIGFAに統合されたが、それまでのSWFRAとISFAの会員であった。
1979年、“Hawaiian International Billfish Association(HIBA)”の会員となる。1980年“Japan Game Fish Association(JGFA)”の会員となる。現在、IGFA、HIBA、JGFAの会員。
※この原稿は1984年「Gamefish & Bluewater」(編集・発行/須賀安紀)に掲載されたものである。

 
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