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Saltwater Game Fishing
ブルーフィン・ツナから始まるビッグゲームの勉強時代

永田一脩

1911年、J.K.L.ロスによって仕留められた680ポンドのブルーフィン・ツナ(ロッド&リールによる、当時の世界記録)

 
 

暗中模索時代のこと

昔の話をすると笑われそうだが、笑うことは健康のためにもいいそうだから、なにかのためになるかも知れない。そうでも思わないと筆がとれない。編集氏がそれでいいから書けというので、古いゲーム・フィッシュの雑誌や本を引っぱり出して書く訳で、その点ご了承をこう。
まず、IGFAのルールについての苦労話から始めよう。
私が読んだ『Organization and Rules』は、1950年のもので、あとで1961年のものも入手した。相棒の関口一郎君がそれを翻訳させたが、“2 feet of leader or trace”という“トレース”が分からなかった。当時『Fisherman』という雑誌があって、その年鑑に『Fisherman's Handbook1955』というのがあり、これに各種の釣り具から釣り餌までの解説が出ているので大変役に立ったが、トレースの説明は充分に理解できなかった。


1900年代初頭カリフォルニア、カタリナ地方における大物釣りに使用したボート。
  もう一つ難解なのは、タックル・ルールには出てこないが、ディープ・トローリングに使用する“Drail”だった。これは関口君が早大理工科出身の腕前を発揮して、独想で手細工のドレイルを作って須崎の和船に付けてブリ釣りをやってみたが長続きはしないで止めた。
その時の写真は今でもある筈だ。
私は、つい最近と言っても1980年の事だが『Fishing The Complete Book』なる本を買って見たら262頁に“Deep-Trolling with the Downrigger”があって、アッこれだったのか、と、つくづく昔日の関口理学士の苦労を思いやったのだった。関口君を知っている人もいるだろうが、銀座8丁目のコーヒー専門店「ラムブル」の主人である。この本は翻訳本が角川書店から『カラー版・釣魚大全』の書名で出版されていることを付記しておく。
 
私達がゲーム・フィッシュのことを知ろうとしていた時代には、専門の良書は殆どなかった。
それで参考にしたのは『The Fisherman Encyclopedia(IRA N. Gabrielson,Editor,Francesca Lamonte,Associate Editor)』の中の“The International Game Fish Association”の頁と、“Saltwater Method”の中の“Ocean Trolling”の項などを読み、単行本ではHarlan Majorの『Saltwater Fishing Tackle』くらいなもので、あとは丸善や神田神保町の古書店で『Field&Stream』や『Out Door Sport』や、『Sports Illustrated』の中のゲームフィッシングの記事のあるものを捜して歩いた。
一番いい記事が出ているのは『Sports Illustrated』で、この幾冊かは今でも大切に持っている。ここでは、その中の2〜3の記事を引っぱり出して、その記事の大要を紹介すると共に当時のあれやこれやを御理解いただければと思う次第である。ついでに付記しておけば、今では、もっと早く『Modern Saltwater Sport Fishing(Frank Woolner:Crown Publishers Inc.,N.Y.1972)』のような良書が出版されていればよけいな苦労をしなくて済んだのに、と思う。

ツナの回遊研究が始まるまで

終戦直後には、外国に釣りに行くことなどは、私達の生活状態ではとうてい考えることさえできなかった。それで、マ−リンやツナの大平洋沿岸の回遊路を調べたりしていた。
宇田道隆著『海洋漁場学(恒星社厚生閣版、昭和35年発行)』には、第14章に“マグロ漁業と漁場”があり、その殆どが大平洋赤道水域とかインド洋マグロ漁場とかで、沿岸のことは殆ど書かれていない。わずかに“春季(3、4月)、ビンナガは日本沖合では27°〜37°Nの黒潮反流域に現われ、大東島の方から紀南礁、鳥島、青ケ島の方へ北東方面に回遊移動する。これは索餌回遊である”“クロマグロ(hunnus orientalis)の漁場は、日本列島沿岸を春夏に沿岸前線の冷水域側を北上回遊する”とあった。 これらの魚は、年々平均魚体が小型になったり増大したりすることが記されているが、九州や青森沿岸でとれることも記されており、関東沿岸のことは全く記録されていない。
“クロマグロの最適漁場は18°〜20°Cの黒潮暖流と冷たい沿岸水の接触する水域に見い出される。冬季このような水帯は九州南方に位置し、かつ日本南方および東方の黒潮の縁辺水域に春夏出現する”

 
純銀のシャープカップを巡って多くのブルーフィン・ツナが釣られた。
 
“クロマグロの最適漁場は18°〜20°Cの黒潮暖流と冷たい沿岸水の接触する水域に見い出される。冬季このような水帯は九州南方に位置し、かつ日本南方および東方の黒潮の縁辺水域に春夏出現する”
九州沖や青森沖では持って行く船もないし、出かけるにしても船頭も知らないので手におえない。それで南海区水産試験所に理由を書いて教えをこうたりした。その返事にいただいた手紙や葉書も保存してはいるが、一番いいのは神津島、三宅島と八丈島の中間で、シーズンは西風の強い真冬であること。時には駿河湾にも入り込むことなどが分かった。
その後、妻良から漁船で沖に出た時に、たった一度だけカジキの大群にぶつかったことがあった。しかし漁師が多くて、あちこちでカジキをかけているのを茫然と眺めるのみだった。波勝崎沖でのことである。

当時釣られたブルーフィン・ツナは、ほとんど食されることもなく、山あいに破棄されることが多かった。
 

さて、私達が日本で大物釣りのあれやこれやを調べていた頃に、海の向こうの米国ではどうであったか?  ここでアメリカ大西洋岸のツナの回遊路についてふれてみたい。これについては1956年9月の『Sports Illustrated』に“Test Time for Tuna”という記事が掲載されていて「第13回インターナショナル・ツナ・カップ・マッチ」のことが、魚の回遊図と共に紹介されていた。当時、この記事は非常に興味深いものであったので、ここにその大要を紹介してみる。
このカップは、1937年に初めて「国際マッチ」を創設するのを援助したボストンのオールトン B.シャープ(Alton B.Sharp)が寄贈したものである。
1949年の競技では3日間に72尾の獲物があったが、1953年には7つのチームで2尾のブルーフィンを捕えただけだった。その中の1尾は、ニューヨークのA.M.ホイスナント・ジュニア(A.M.Whisnant Jr.)の585ポンドだった。そして前回メキコに渡っていたカップを奪い返したのだった。

競技はウェッジポート(Wedgeport)で行なわれ、各国語でごった返していた。ツナは、イギリス人は「タニー(tunny)」、ドイツ人は「デァ・ツーンフィッシュ(der thun-fish)」、ポルトガル人は「ア・アッム(Oatum)」と呼んでいる。
人類が魚を釣り始めた古代から、ブルーフィン・ツナはその対象となっていた。古代ローマ時代から商業上の利益のために捕獲して、現在もまだそれを続けている。日本人と大平洋の諸国民もまた何世紀にも渡ってマグロを追い続けてきた。ただ、バハマ諸島からノヴァ・スコシアに及んでいる区域の北大西洋においては、その捕獲の物語は全く別な進路を辿ったのである。

ここでは、今世紀の転換期までは、ブルーフィンは商業的にも他の目的においても、殆ど人々の興味を引きおこさなかった。しかし、スポーツ・アングラ−達の回遊魚に対する興味が高まるにつれて出くわしたのがブルーフィンだったのである。
その努力は悲壮だった。「Gamefish & Bluewater」誌1984(編集・発行/須賀安紀)によると使用したボートは手こぎの平底の軽船で、使用したリールは当時としては贅沢品だった。それらはドラグ機構のないリールで、ラインが出る時はハンドルがプロペラのようにクルクルと逆転し、スプールにブレーキをかける時には親指でブレーキをかけなければならなかった。
1896年にW・グリーア・キャンベル(W.Greer Campbell)がカリフォルニア州のアヴァロン(Avalon)沖で、ロッド&リールで釣り史上記念すべきツナを釣った(※編集部注:チャールズ・F・ホルダーの『An Isle of Summer(1901年)』にはコーネルC.P.モアハウスが1896年、ロッド&リールで最初のツナを釣ったとある。正確な日時は今となっては分からないが、両者共にスポーツ・フィッシング史上記念すべきツナを同年に釣ったことは確かである)。
 
 
1898年にチャールズ・F・ホルダー(Charles F.Holder)が同じアヴァロン沖で183ポンドの大物を釣り、結果、「カタリナ・ツナ・クラブ(Catalina Tuna Club)」を創立した。そして大物釣りの装備の進歩に多大な貢献をした。その頃のブルーフィン・ツナの幾つもの捕獲は、すべてカリフォルニア沖で仕留められたものであった。そして、これが「アヴァロンにおける華やかな90年代(19世紀の最後の10年間)」だった。
1908年に海軍士官のJ・K・L・ロスCommander J.K.L.Ross, R.C.N.(Royal Canadian Navy)が、ノヴァ・スコシアのプレトン岬でブルーフィンに挑んだ。彼は22尾の大魚を鉤に掛けたものの、ことごとくバラしてしまった。楽天的な性格さと同時に著しい執拗さを併せ持っていた彼は、3年後に再びブルーフィンに挑んだ。最初の魚とは19時間ファイトしたものの、ついにはラインを切られてしまった。それからさらに19尾のブルーフィンを鉤に掛けたもののランディングには至らなかった。そしてやっと21番目に掛かったブルーフィンをランディングすることに成功した。680ポンドの獲物であった(トップページ写真参照)。
その後、同じく海軍士官のダンカン・マッキンタイア・ホジスンがセント・アン湾で977ポンドというブルーフィンの記録を達成した(※現在の世界記録は1979年にノヴァ・スコシアでKen Fraserによって達成された1496ポンド)。

1979年、10月26日。ノヴァ・スコシア(カナダ)沖においてケン・フレイザーによって仕留められた1496ポンド(679kg)のブルーフィン・ツナ(現世界記録/130ポンド・ライン)
  ホジスンは、その釣りにおいてロスに多くを教えられたが、実際、彼はロスの養子であった。
1890年代のビッグ・ゲームの黎明期から40年以上もの歳月の間に、タックル(釣り具)とアングリング・テクニック(釣技)は著しく飛躍したが、それにツナ・フィッシングの果たした役割は大きかった。
1930年代は、ブルーフィン・ツナにとって輝かしい栄光の時代であった。何よりもマイケル・ラーナー(Michael Lerner:IGFA2代目会長)の存在と、彼のディープシー・フィッシングに対する探求心は多くのアングラ−に影響を与えた。彼の働きで、ウエッジ・ポートはスポーツ・フィッシャーマンのための港として変貌したのである。
ツナはビミニやキャッツ・ケイ付近の大バハマ浅瀬の西端でも釣られるようになった。そして1935年には文豪アーネスト・ヘミングウェイが、釣り人として最初の獲物をそこで仕留めた。
そして、エス・キップ・ファリントン・ジュニア(S.Kip Farrington Jr.)が、彼、ヘミングウェイの後に続いた。
実際に、この頃までには、ツナは東部の海岸地方の一帯にわたって発見されるようになっていた。しかし、単にツナを釣ることだけでは満足しない釣り人達もいて、その連中は、ブルーフィンはバハマ諸島に移動してくる前にはどこにいたのだろうか疑問を抱き始めていた。それらの釣り人の中には、アマチュアの科学者になったり、本当の科学者を面白半分にうるさく悩ませる者もいて、その問題の解答を知りたいために多額の金を寄付する人さえいたのだった。
こうして、大西洋岸のウエッジ・ポートからバハマ諸島のツナ回遊路研究が本格的に始まったのである。それは同時に、日本の私達のビッグ・ゲームの勉強時代でもあった。
 
※この原稿は「BOAT & GAMEFISH」第5号1986年1月発行に掲載されたものである。永田一脩氏は1988年4月9日、84歳でお亡くなりになられたが、その前年、遺作となってしまわれた『江戸時代からの釣り(新日本出版社)』という大著を上梓されているので是非とも御一読願いたい。
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