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ケアンズのビルフィッシング開拓史
THE HISTORY OF BILLFISHING AT CAIRNS

By John Mandora
訳・構成/(株)八点鐘 編集部

オーストラリアで最初にキャッチされたブラックマ−リンのグランダ−。1966年9月25日、ブランズフォードのデッキハンド、リッチー・オバックが80Lbテストタックルを用いてキャッチした1064Lbである。この1尾はアングラ−のものというより、長年に渡り自らの夢を追い求めてきた「シーベイビー1」のキャプテン、ジョ−ジ・ブランズフォードのものと言えるだろう。このグランダ−がキッカケとなり、ケアンズに「ゴールドラッシュ」が訪れたのである。

 

 

ケアンズをゲームフィッシングのメッカとして始動させた初代「シ−ベイビー」の勇姿。ハロルド・コリンズ建造による全長10mの小型ボートがブランズフォードの愛艇だった。現在は4代目の「シーベイビー4」がグレートバリアリーフで新たな歴史を綴り続けている。
 

ジョ−ジ・ブランズフォード
野心溢れるアメリカ人青年がケアンズに夢を追いかけた

1940年代の初め。第2次世界大戦中のことである。フロリダ生まれの若き米軍落下傘兵ジョ−ジ・ブランズフォードが、最後の任務を遂行するためケアンズに到着した。
家族へのホームシックからか、彼の嗅覚は無意識のうちに潮の香りを嗅ぎ分け、休日はケアンズの鄙びた港で時をやり過ごしていた。フロリダでチャーター業をしていた彼が、港で出会った屈強な漁師にビルフィッシュのことを訊ねたとしても、それはごく自然なことだったと言えよう。
「ビルフィッシュ? あんな血の気の多い奴はいねぇな。俺らの道具を残らず持っていっちまう。せっかく釣ったマッカレルを持っていっちまうんだからな。恐ろしく凶暴だよ。」そう答えた漁師に、ブランズフォードは興奮しながら、そいつはどのくらいの大きさなのかと迫った。「そうだなァ、15フィートぐらいのヤツもいるな。なんせ、この船と変わんねぇからな。」
ひょっとすると、その屈強なオージーの漁師はブランズフォードをからかったのかもしれない。だが、彼はその時悟ってしまったのだ。この海のどこかに、とてつもなく巨大なマ−リンが泳いでいることを…。

彼はこう考えた。
「小さなマ−リンが20キロもあるマッカレルを持っていくはずはない。もしかすると、マ−リンはこのあたりで産卵するのではないか」と。ブランズフォードは、ケアンズとグレートバリアリーフが非常に接近していることを上空から見て知っていた。1年のある時期、巨大なマ−リンがグレートバリアリーフ一帯をうろつく。そんな考えが彼の頭に浮かんだのである。
東に向いた港に佇み、その小柄なアメリカ人は静かに誓いを立てた。もしもこの戦争に生き残ることができたら、ケアンズに戻り、自分の考えが正しいかどうかを試して見よう、と。
そして時は過ぎ、1960年。小柄なアメリカ人は若かりし頃の夢を叶えるために再びオーストラリアを訪れた。数カ所を調査した結果、やはりケアンズがベストであることが分かった。グレートバリアリーフのアウターリーフに最も近く、しかも町は発展しつつあった。今から34年前、ケアンズはすでに国際的な観光地としての資質を発揮し始めていたのである。
しかし、ブランズフォードにとっての問題は、追い求める巨大マ−リンがいったいどのくらい遠くにいるのかを知ることだった。そこで、当時すでに行なわれていた引き縄漁の航路を調べ、漁師たちがマ−リンを見たという海域がスポーツフィッシングボートで行ける距離なのかを調べ上げたのである。
それらの海域が100マイル彼方でなかったのは幸いであったが、それにしても実際に魚を釣るために取らなければならない方法はたったひとつであった。彼はただちにフロリダに戻ると、家とボートを売り払い、妻と2人の子供を連れて、後年、オーストラリアの貴重な財産となるビッグマ−リンを追うためにケアンズへやってきた。
 
1965年10月3日。「シーベイビー1」は当時としてはオーストラリアで最大のマ−リンをダブルキャッチした。251.5Lbと210Lbである。現在ではこのクラスはほんの子供として相手にもされないが、当時はケアンズの港に人だかりができるほどの「大物」であった。アングラ−はブランズフォードの妻ジョイスと友人のデビッド・ホプトン。ケアンズのチャーターボート業はまだ目覚めておらず、「シーベイビー1」のアングラ−はもっぱら知り合いばかりであった。まさにブランズフォードの夢だけが「シーベイビー1」を動かしていたのである。この状態は1966年に彼が金鉱を探り当てるまで続いた。
 
しかし、ちょっと考えてみてほしい。今までの生活を捨て、全ての財産の売り払って、ただ自分の夢を追うためだけに太平洋を渡ることができるだろうか。もちろん、夢が実現する保証はまったくないのだ。この小柄なアメリカ人は人一倍ガッツと行動力を備えた男だったと言える。
ブランズフォードがケアンズに到着したのは1963年のことであった。その時彼を知る者は誰もなかったが、数年後には世界中をアッと言わせる人物になっていた。
ブランズフォードがボートの製作を注文したのはハロルド・コリンズだった。ケアンズの裏通りで「シーベイビー」は誕生したのである。1964年のことだ。「シーベイビー1」のキャプテンはもちろんジョ−ジ・ブランズフォード。デッキハンドはコリンズの息子アランだった。アランはブランズフォードから全てを学ぶべくデッキハンドとして乗船し、ブランズフォードは自らの夢を実現するために乗船していた。

左からジョ−ジ・ブランズフォード、デッキハンドのアラン・コリンズ、「シーベイビー1」の建造者であるハロルド・コリンズ。オーストラリア東海岸におけるビルフィッシングの開拓者、ビッグスリーである。
  だが、1964年が押し迫っても、彼らの挑戦は恵みなく繰り返され、一尾のマ−リンさえも見つけてはいなかった。キャッチするのはマ−リン以外の小型魚ばかり。「シーベイビー1」にとって最初のブラックマ−リンは、フィッツロイ島の近くでキャッチした35ポンドという極めつけの小型であった。当時はまだチャーター業が成立するような状況ではなかったため、アングラ−はたいていの場合、「シ−ベイビー1」を建造したハロルド・コリンズが務めた。
しかし、ブランズフォードの試みは次第に報われ始めていた。1965年の2月には、150ポンドのブラックマ−リンをキャッチし、65年の10月3日には210ポンドと251.5ポンドの2尾をケアンズの港に持ち帰った。マ−リンのサイズは見る見る大きくなっていったが、この程度のサイズでは世界中のアングラ−たちを引きつけることなどできないことをブランズフォードは知っていた。そして1965年の暮れ、彼はついにユーストンリーフのエッジにまで足を伸ばしたのである。
 
それは素晴らしい日だったと彼は後に語っている。全てはブランズフォードのための1日だった。彼はこの日を20年以上も待ち続けていたのである。いつも通りデッキハンドにはアラン、アングラ−にはハロルド・コリンズ、さらにこの日はゲストとしてコリンズの妻も乗船していた。
ブランズフォードは極めて冷静な男であったが、突然ブリッジに立ち上がり、「見ろ! あの魚! 1000ポンドだ!」と叫んだ時には、コリンズ一家はむしろ彼の興奮した様子に驚いたという。タックルには何の変化もなく、一家はブランズフォードが最初何のことを言っているのか分からなかったが、周囲を見まわした時、彼らもまた驚愕した。トランサムから数メートルのところを、その巨大なマ−リンは泳いでいたのである。すなわち、オーストラリアの海域で初めてウェーキに寄ってきたグランダーである。
やがてウェーキに関心を失うと、今度は後方のベイトにストライクした。フックアップである。いや、むしろフックアップされたのは彼らのほうであった。現在のスポーツフィッシャーマンに比べると、「シーベイビー1」はかなり原始的な造りであり、タックルもまた現在なら博物館に展示されているような代物であった。それにひきかえ、グランダーブラックのパワーときたら現在とまったく変わらないのだ。
アングラ−のコリンズは8時間ファイトを続けたが、心臓マヒするよりマシとばかりにチェアを息子のアランに譲った。彼らの目的がレコードでないことは明瞭である。彼らはただそのグランダーを釣り上げ、オーストラリアのケアンズにも巨大なマ−リンがいることを世界に示したかったのである。
最終的にラインがブレイクした時、ボートはバリアリーフのどこかに漂い、夜はすでに朝を目指し始めていた。しかし、これで「いる」ことは分かった。後は釣るだけである。では、その時はいつ訪れたのか? それは、この出来事からほぼ1年後のことだった。
1966年9月25日。デッキハンドは、自分のボートを持ったアランに代わり、リッチ−・オバックが務めた。この日はゲストアングラ−がいたが、船酔いがひどく、とてもファイトできる状態ではなかった。やむを得ずチェアにはリッチ−がついた。しかし、今回は幸運の女神が微笑んだのか、彼らはついにキャッチに成功したのである。
彼らはなんとか魚をコックピットに引き上げようとしたが、頭をどうしても水から上げることができなかった。しかし、この時点では、せいぜい500ポンド程度だろうとブランズフォードは考えていた。「シーベイビー1」が港に戻ったのは夜中であったが、私は運よくその場に居合わせていた。
ボートはかつてヨットクラブがあった場所に移動された。魚はとりあえず氷に浸しておくためにクレーンで吊された。ブランズフォードはこの時点でさえ700ポンドぐらいだろうと推定していたが、それも無理はない。考えてみれば、ブランズフォードにしても、実際に1000ポンドを超えるマ−リンをこんなにも間近に見たことはなかった。他の者は見当さえつかなかった。
翌日は大騒ぎだった。巨大なマ−リンを吊したクレーンが通りを横切り、交通は完全にストップ。笑い話のようだが、これは実際に起こったことなのだ。計量は大勢の人々が見守る中で行なわれた。
1064ポンド! 80ポンドテストタックルによるワールドレコードである。
その時ブランズフォードは静かに微笑んでいた。それはまるで、かつて若かりし頃の誓いを思い返しているようでもあったが、同時に、この魚が1064ポンドなら、1年前一晩中かけてファイトしたあのマ−リンはいったいどのくらいの大きさなのだろうと新たな闘志を燃やしているようでもあった。
 
1969年10月31日、50Lbテストラインによってキャッチされた1124Lbのブラックマ−リン。もちろん世界記録である。しかも、この記録はいまだ破られていない。アングラ−はエドワード・シ−(右から2番目)。50Lbというラインクラスも驚きだが、さらに驚くべきは、たった25ftのスモールボートによってキャッチされたという点である。トランサムからはみ出した魚体は、さすがに迫力がある。
 
これを境に「ゴールドラッシュ」は始まったのである。1971年には、かつてブランズフォードのデッキハンドを務めたアラン・コリンズがマザーシップを利用した新しいアプローチを持ち込み、時間を有効に使うことを可能にした。70年代の初めから中頃にかけては、リボンリーフなどリザードアイランド一帯の海がピーター・ブリストウによって開拓された。さらに、ボブ・ダイヤーとリー・マーヴィンがケアンズのマ−リンフィッシングをドキュメンタリーフィルムに収めたりしたのも70年代である。このようにしてクイーンズランド州北部のグランダ−ブラックは、オーストラリアのツーリズムに欠くことのできない目玉に成長していったのである。
第2次世界大戦中もしも米軍の落下傘兵があの誓いを立てていなければ…。そしてグランダーを追い求める彼の熱意がなかったら…。オーストラリアでブラックマ−リンを釣る時は、ブランズフォードと「シーベイビー1」のことをぜひ思い出してほしい。
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