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IN ZANE GREY'S FOOTSTEPS
ゼーン・グレイの足跡を追って

ヘミングウェイを嫉妬させた男 ゼーン・グレイ
「洋上」での幸福な日々
The Days with Rod & Reel

文・須賀安紀

 

 
    作家として成功すること。そして、アングラーとしての名声を得ること、いや、好きな釣りに対する情熱を完全に燃焼させること。その2つを見事に成し遂げた男たちがいる。グレイ然り、ヘミングウェイ然り……。ただそのスケールと燃焼度においては、グレイの方が一枚上手であろうか。1896年、ニューヨークの西21番街117番地に住み、歯科医としての平凡な人生を歩むかに見えた男が、売れっ子の作家となり、ビッグゲームの黄金時代を駆け抜けたのは、自身の生きざまに対する執拗なまでのこだわりからであった。

作家としての成功を収めたときグレイは既に40歳を過ぎていた。その頃、彼はロスアンゼルスの南西に浮かぶカタリナ島を初めて訪れた。1898年、チャールズ・フレデリック・ホルダーたちによって設立された「カタリナ・ツナ・クラブ」で、彼はビッグゲームのフロンティアたちの空気に触れたのである。1914年、42歳の夏であった。ブルーフィン・ツナ、そしてマーリンやソードフィッシュといった、当時のタックルでは多くの困難を伴った大魚に挑むうちに、彼は次第に遠い南大平洋の海に潜む“野生”に想いを抱くようになった。常に先鋭のアングラーであり続けたグレイと、閉鎖的なツナ・クラブとの確執が、さらにその想いを強くした。1920年代、当時は誰もが想像しなかった南大平洋への遠征釣行に彼は乗り出した。ガラパゴス、タヒチ、フィジー、ニュージーランド、オーストラリア……。50歳を過ぎて彼のフィッシング・アドベンチャーは開始され、67歳で没するまで彼はビッグゲームのパイオニアであり続けた。

 
 

ニュージーランド、ベイ・オブ・アイランズの一画にあるラッセルの町。「小さな美しい町だ」とグレイは「アングラーズ・エルドラド」の中で書いている。
Kaoru Soehata/コスモ&アクション フォトライブラリー

Kaoru Soehata/コスモ&アクション フォトライブラリー

オーストラリア バーマグイ
グレイが7週間を過ごした休暇の地
Game Fishing at Bermagui, Australia

1936年、真夏の7週間

 

 
1936年の夏、ゼーン・グレイ一行は、バーマグイのホースシュー・ベイを見下ろす小高い丘で、7週間に渡る野営生活を送った。目的はもちろんこの海域の開拓。この写真は、一行の野営の様子を示す貴重な一枚である。

ゼーン・グレイがキャッチしたタイガー・シャーク。全長13ft10in(約4m20cm)、重量1,036Lb(約470kg)は当時の世界記録である。
  「歳月を重ねるほど、遥か異郷の地で行なった幾多のキャンプの想い出は、ますます美しくロマンティックなものになるようだ。なかでもバーマグイでの想い出はとりわけて鮮烈なものである。村落から緩やかに立ち上る小高い緑の丘の頂上からは大洋が一望のもとに見渡せる。断崖は息を飲むほど急峻である。岩石の堆積する海岸は果てしなく続き、そこへ荒々しい波が打ち寄せ、その轟々たる激しい波浪音はいまだにはっきりと私の耳にこびりついている。……釣魚に関して言えば、このタスマン海の濃紺の海は、その激しい潮流と嵐による悪名高さと、その鯨と魚の濃密な群泳ぶりによって、私は釣魚というスポーツに新鮮かつ無根の喜びを見い出さざるを得ないのである。……」(ゼーン・グレイ著“An American Angler in Australia”より、1937年刊)
米国の著名な西部劇作家であり、ゲームフィッシングの開拓者であったゼーン・グレイは、オーストラリア南東部の海辺に佇むバーマグイの村落を初めて訪れたときの想い出を、そう書き残している。

1936年1月、バーマグイに到着したゼーン・グレイの一行は、村落の外れの、ホースシュー・ベイを見下ろす小高い丘の上に、快適なベースキャンプを設営した。それから7週間、グレイとその仲間は天候が許す限り毎日のようにバーマグイの沖合いから北のモンタギュー島にかかる海域で釣りをした
この釣行で、彼らは21尾のビッグゲームを釣り上げた。その内訳は、220kg強のブラックマーリン1尾、同じく180kg強のブラックマーリン4尾、最大140kgまでのストライプトマーリンを多数、マコシャークとホエラーシャーク、そしてオーストラリア海域では初捕獲となった41kgのイエローフィンツナなどであった。これら以外にも、一行は大物をたくさんバラしており、グレイによると、中には超大型のパシフィック・ブルーマーリンも含まれていたという。

 
これは現在。ホースシュー・ベイを背にバーマグイのメインストリートを望む。オーストラリアのスポーツフィッシングに多大な影響を与えた57年前の夏を語るものは何もない。だが、グレイの信者にとっては聖地のひとつである。

グレイの次男。ローレン・グレイ(船上)は後にこの地を訪れた。
  1936年の最初の半年間に、バーマグイの沖合い及びその近辺のオーストラリアの沿岸海域においてゼーン・グレイの釣り上げた釣果は、オーストラリアのゲーム&スポーツフィッシングの将来性と発展を示唆する意義深い一里塚となったのである。ロッド&リールによってオーストラリアで初めてマーリンが捕獲されたのは1914年頃とされているが、ゼーン・グレイの遠征が始まるまで、その素晴らしいオフショア・フィッシングの可能性はまったく未開拓と言える状態であった。

わずか7週間の釣行ではあったが、ゼーン・グレイはこの海域の無限なる可能性について世界中のアングラーの目を開けさせることができたばかりか、自分が去った後も現地のフィッシャーンマンやスキッパーたちが自らの手でこの可能性の探究と発展をはかることができるように知識やテクニックを彼らに残していったのである。その意味からも、この1936年のオーストラリア遠征は、その数年前に行なわれたニュージーランド遠征のときと同じように、オーストラリアにおけるスポーツフィッシングの本当の夜明けとして銘記されるものである。
1936年以降、バーマグイでは1ダースにあまるオーストラリア記録及び世界記録の魚が釣り上げられ、その港は南半球における最も魅力的な釣行地のひとつとして知られるようになり、ゼーン・グレイの足跡を辿ろうとするアングラーを世界中から魅きつけてきたのである。

 
少年期のローレンと父親の顔を見せる偉大な釣り人、ゼーン・グレイ。

グレイの次男。ローレン・グレイ(船上)は後にこの地を訪れた。
 

バーマグイ沖のフィッシングカレンダー
リポート:スティーブ・スターリング

オーストラリア東海岸にあるバーマグイの港は、シドニーの南450km、メルボルンの北東700kmの地点に位置している。今日、その安全な港は近代的な大型魚船の基地となっており、トロウラー船、底引き網船、マグロ船、延縄船などが舳先を並べて停泊している。むろん、レクリエーションを求めるゲーム&スポーツアングラーたちも毎年のようにこの地を訪れている。
バーマグイ周辺の海底地形図を見ることは、その漁港としての人気の高さと、その生産性の高さを理解する一助となるであろう。ここの大陸棚はオーストラリア東海岸全域で、もっとも幅が狭く、海岸線から15〜20km以内は水深200mほどの海底が続いており、大陸棚の縁際には深い海底峡谷が無数に切れ込んでいる。

北東方向には、モンターギュー島から続く、海底山脈がこの狭い大陸棚をさらに圧縮するように迫ってきており、それによって作られたボトルネック状の谷間が天然のマーリン・ハイウェイとなっている。さらに、赤道から流れてくる東オーストラリア暖流に乗って北へ南へと回游する魚群も、この海域に集中するのである。
このような恵まれた地形のおかげで、バーマグイのゲームフィッシング・シーズンは1年を通して絶えることがない。とはいえ、本格的なゲームフィッシングのシーズンは10〜11月頃から始まる。その頃になると、大陸棚の縁に沿って多数のアルバコア、スキップジャックツナ、マコシャーク、ブルーシャークなどが回游を始める。また状況いかんでは6〜25kgクラスのイエローフィンツナや、たまに大型のストライプト・マーリンなどが釣れる年もある。

 
1938年に上げられた140kgのストライプトマーリン。

グレイの継承者たちは次第に数を増していった。
 

12月中旬になると、バーマグイ沖の海水温は急に上昇する。そうなると、中小型のブラックマーリンや、あらゆるサイズのハンマーヘッドシャークがショア近くまで入ってくるし、モンタギュー島周辺の岩礁域ではイエローテイル(オーストラリアではキングフィッシュと呼ぶ)が活発にフィーディング(捕食)し始める。
さらにシーズンが進んで1〜2月頃になると、バーマグイはいよいよマーリンの最盛期を迎える。インド洋、大平洋における3種の代表的なマーリンはもちろん、時には重量400kg以上のブルーマーリンも姿を見せる。そのような超大型に出会うチャンスは2〜3月にかけてさらに増え始める。

3月中旬から4月中旬にかけては、マーリン、数種類のシャーク、ドルフィン(マヒマヒ)、ワフーなどと共に、重量24kgクラスまでのイエローフィンツナの群泳が増え始める。この頃になると、バーマグイ沖の潮流の水温は1年中で最も高くなり、時には摂氏25〜26度まで達するが、通常は23度くらいが数日間、あるいは数週間ほど持続する。
とはいえ、熱心なゲームアングラーが心待ちにしているのは大型イエローフィンの回游である、それが本格的に始まるのは、4月最後の週か5月の初旬になってからである。
その頃には、水温は徐々に下がりだして22度以下になり、30〜60kgクラスのイエローフィンが大陸棚の縁沿いに回游し、バーマグイやモンタギュー島周辺の岩礁域にも一時的につく。時には60〜100kgクラスの超大型イエローフィンも姿を見せるが、このような大型に出会うチャンスはシーズンが深まるにつれてさらに増える。
1993年の5月から6月にかけて、バーマグイでは90kg以上のイエローフィンが6尾ほど釣り上げられた。その中の最大魚(124kg)はオーストラリアのオールタックル記録を更新している。

 
IGFA共同創設者クライブ・ファースもその1人。

グレイの足跡を追うアングラーは絶えない。バーマグイ沖でストライクした約50kgのイエローフィンツナ。
 

ルアー&フライのキャスティングやライトタックルのファンにとっても5月から6月にかけてが最高のシーズンである。海流の水温が下がりだすその頃は、大陸棚の縁に沿って多数のアルバコア、イエローフィンツナ、スキップジャックツナなどが姿を見せ始める。この頃に釣り上げられるアルバコアは平均して7〜12kgだが、時に24kg以上も上がる。
6月下旬から7月初旬になると、南から流れてくる潮流の温度が16度以下に下がるため、通常、ゲームフィッシングはひと段落を迎える。そして、毎年訪れるこの冷たい海流と一緒に、タスマニアと南オーストラリアの海域で夏の終わりまでフィーディングしていたサウザン・ブルーフィンツナの群れが回游してくるようになるのだ。1960年代から70年代にかけて、オーストラリア及び外国の職漁船団による乱獲によって激減していたこの素晴らしいゲームフィッシュも、最近になってようやく東オーストラリアの海域に戻り始めたようだ。

 
沿岸のサウザン・ブルーフィンはたいてい6〜15kgと比較的小型であるが、沖に出ればそれよりずっと大きなサイズの、時には180kg以上もの超大型に遭遇することができる。1993年には、延縄船はバーマグイ沖で220kgのブルーフィンツナを捕獲している。しかし、そのような大型はサウザン・ブルーフィンツナというよりも、単独で回游してくるセントラル及びノーザン・ブルーフィンツナである場合が多いようだ。両ブルーフィン種とも、終わりのない回游サイクルを再び開始するまで、8月と9月の約2ヶ月間をバーマグイ海域で過ごすのである。
近年になって、バーマグイのゲームフィッシュとしてブロードビル・ソードフィッシュという魅力的なターゲットが加わった。ゲームフィッシュとして昔から名高いソードフィッシュのほとんどは、4月から7月初旬にかけての満月の晩に生きたイカをベイトにして釣り上げられている。延縄船の捕獲記録を見ると、かなりの数のソードフィッシュが1年中釣れており、しかもその中には240kg以上の大型も混じっている。
 

50Lbテストのスタンダップタックルでランディングした210Lb(95kg)のイエローフィンツナ。場所はもちろんバーマグイ沖。

バーマグイ沖はブラックマーリンのスポットとしても知られる。ここでのベストシーズンは1月の中旬から5月末まで。

筆者スティーブ・スターリングが10番のフライタックルでキャッチした9kgのアルバコア。バーマグイ沖のドロップオフは回游魚の通り道だ。
 
バーマグイのスポーツフィッシングで使用されるボートの大半は15〜23ftの船外機仕様であり、そのほとんどはメルボルン、キャンベラ、シドニーからやってくる熱心なフィッシングクラブ・メンバーの所有になっている。とはいえ、最近ではチャーターボートの数も増加しているので、一般のアングラーや旅行者でも、バーマグイでのゲームフィッシングを楽しみ、見事に運営される数多いトーナメントに出場することも可能である。そして何よりも、ゼーン・グレイの輝かしい足跡を辿るという得難い経験ができるのである。なお、バーグマイでのチャーターボート、宿泊、またメルボルンやシドニーからの交通に関する問い合わせは下記まで。
 
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