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Hawaiian International Billfish Tournament
栄光のビルフィッシュトーナメント
HIBT40年の伝説

文・須賀安紀

 

ハワイ島コナをベースに、毎年夏季に行われる「ハワイ国際カジキ釣り大会(HIBT)」は、大多数のビッグゲームアングラーが世界最高峰のカジキ釣り大会と認めるトーナメントだ。そのHIBTは昨年(1998年)40周年を迎え、その記念すべき大会で日本チームが優勝を飾るという素晴らしい出来事もかさなった。40年の歴史を振り返りながら、HIBTというトーナメントの魅力とは何か、探ってみよう。

 
第40回HIBTのスタートフィッシング。ルマン方式のスタートはこのHIBTで始まり、世界中のビルフィッシュトーナメントで採用されるようになった。

ゴルフのマスターズを手本に、
釣りの国際イベントを構想した男

1955年のことだ。一人の若者がアメリカ本土からハワイ島コナに渡ってきた。彼の名はピーター・フィジアン、27歳。生まれも育ちもボストンで、海軍兵学校時代の48年夏、初めてハワイを訪れその魅力の虜になったフィジアンは、いつか再びここに戻ってこようと心に決めていた。後に、ホテル経営学科で知られるコーネル大学に学んだ彼は、卒業後の一年間、マスターズトーナメントの舞台として有名なオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブで働き、経営の実践を積んだ。そして、ハワイ島カイルア湾に面したカイルア・コナといういささか活気に欠ける漁村で、「コナ・イン」というホテルの経営にかかわることとなった。これがフィジアンとコナ、ひいてはHIBTとの関係の始まりだったのだ。
コナ・インは小さなリゾートホテルで、ホノルルからやってくる客の大部分が釣りを楽しんだ。フィジアンは支配人だったが、客が持ち帰った魚との記念撮影も彼の仕事の一つだった。撮影の仕事は忙しく、ホテルの前の海が豊かな海だということを知った彼は、フィッシングリゾートとしてコナをもっとアピールする方法はないかと考えるようになった。
コナ・インはチャーターボートの予約業務も行ったので、そのキャプテンたちと付き合うようになったフィジアンは、時には一緒に釣りにも行き、彼らからカジキの話を聞いていた。57年夏のある日、フィジアンは地元の漁師が「アウ」と呼ぶ巨大な魚が陸揚げされるのを目撃した。そのビルフィッシュを見たとき、オーガスタの経験とあわせて、HIBTのアイデアがフィジアンの頭に閃いたのだった。「世界中でカジキがこれほど釣れる海がほかにあるだろうか? それならば、コナに世界中の釣り師を呼んで、マスターズのように国際的な釣りトーナメントが開けるはずだ」。

 
HIBT史上最大魚、ブルーマ−リン1062.5ポンド。HIBT40年の歴史上、釣魚の最大記録を現在も保持しているのはジル・クレイマーというアングラ−だ。1986年8月8日、彼は50ポンドラインで1062.5ポンド(約482kg)のクロカジキを釣り上げた。クレイマーは当時、カリフォルニアの農場主だったが、この釣りが縁となって現在はハワイに住み、HIBTの役員もしている。

HIBTの立役者、ピーター・フィジアン。彼の尽力なくしてはHIBTはありえなかったし、現在の世界的なビルフィッシュトーナメントの興隆も彼の存在なくしては考えられない。ミスター・ビルフィッシュトーナメントと呼ばれる所以である。「今でこそ世界各地で200を超えるビルフィッシュトーナメントが開催されているが、当時は我々の始めたHIBTしか存在しなかった。今だって、ビルフィッシュトーナメントと言えばこのHIBTを指すのさ」
 

コナ洋上の先達たち…
キャプテン・チャ−リ−に始まるスキッパーの系譜

コナのスポーツフィッシングの歴史は、1920年代まで溯る。
1923年に本土からホノルルに移り住み、建設業者として成功したチャ−リ−・フィンレイソンが、来島してすぐにコナの海に注目し、釣り用のボートを建造したのが始まりと言われている(そのため彼は“コナ・スポーツフィッシングの父”と呼ばれる)。29年に当時の最大魚、380ポンド(約170kg)のカジキをあげ、“キャプテン・チャ−リ−”として知られるようになったフィンレイソンは、コナの持つ可能性に確信を深め、37年になると2隻の新艇を建造し、コナ海域の独占的な営業権を獲得してチャーターボートビジネスを始めた。
営業センスに優れていたフィンレイソンは40年代、映画プロデューサーのセシル・B・デミルを始めハリウッドの映画スターや各界の著名人をあまた遊漁に呼び寄せ、彼らの口を通じてビッグゲームの釣り場としてのコナの魅力を広めていった。また、コナ・チャータースキッパー協会を設立するなど、チャータービジネスの確立にも尽力した。
彼の下からはヘンリー・チーやジョ−ジ・パーカーなどの優秀なスキッパーが育っていった。H・チーは自作のルアーを使い、生涯どのくらいの数のカジキを釣ったかわからないと言われた伝説の名スキッパーで、現在も使われる数々のトローリングテクニックを開発している。ボートではいつも白いシャツにジーンズ、裸足といったいでたちで、寡黙なことでも有名だったという。

G・パーカーは1954年11月、ダイヤモンドヘッド沖で1002ポンドのブルーマ−リン(クロカジキ)を釣り、ハワイ最初の“グランダ−”(1000ポンド以上のカジキのこと)を記録したことで有名だ(その後、ハワイのグランダーは95年までの公式記録で53本を数えている)。彼はまた、スペンサー・トレーシーからシルベスター・スタローンまで数多くのスターや政財界人の釣り好きと友達づきあいがあり、この点でもコナのPRに大きく貢献した。ピーター・フィジアンは特にH・チーと親しかったから、その国際釣り大会構想のヒントはチーの話に負うところが多かったと思われる。しかし、キャプテン・チャ−リ−から続くコナのスポーツフィッシングの伝統、ロマン、そして努力と、フィジアンのマーケティングプロデューサー的なセンスが合致してはじめてHIBTが生まれたことは確かである。

 
映画スターはビッグゲーム好き。日本でも同じ傾向があるが、有名な芸能人に釣り好きの人は多い。映画スターのリー・マービンもその一人。1965年の大会に参加したときにはボートにハワイアンのトリオを乗せて演奏させ、ステレオを鳴らし、バーテンダーまで用意して呑み、かつ遊んだという(1989年HIBTオフィシャルプログラムより)

第1回でHIBT初の世界記録1959年の第1回HIBTで早くも世界記録が出た。80ポンドラインでジョージ・ウーラーというアングラーが記録した444ポンドのブルーマーリンだった。
  フィジアンの期待と本当の目的は、この国際釣り大会を契機に年間を通じてコナの釣り関連産業が賑わい、大きく発展することにあった。H・チーが40年代後半にキャプテン・チャ−リ−のチャータービジネスを引き継いだ時、コナにチャーターボートは3、4隻しかなかったという。その後、チャーターボート・ビジネスとホテル業界は運命共同体と考えていたフィジアンにとってHIBTはその発展のためにも必要だった。
    HIBTでは魚類学者たちによる様々な研究が釣果を対象に実施されている。最近では、サテライトタグ等を使ったタグ&リリース調査も行われている。

コナの最初期のチャーターキャプテンたち。伝説的な名アングラー、ヘンリー・チー(前列右端)の名前は彼が亡くなった65年以降、HIBTで最多得点を挙げたスキッパーに贈られるヘンリー・チー記念賞として今に残っている。ジョージ・パーカー(前列左端)はハワイ初のグランダーを記録したスキッパーで、そのファミリーは現在もチャータービジネス界で活躍している(1995年HIBTオフィシャルプログラムより)

 
 

MR.ビルフィッシュトーナメント
カジキ釣り大会の原型はHIBTで作られた

HIBTの構想を得たフィジアンが最初に行ったのは、コナ海域で釣れる大型魚種の確定だった。当時は魚種分類の意識も知識も希薄で、れっきとした魚類学者でさえ「大平洋に1000ポンドを超えるようなブルーマ−リンは存在しない」と言い切っていた時代だから、例えばG・パーカーのブルーマ−リンもIGFAから公認を拒否されていた。巨大なカジキは当時、ブラックもしくはシルバーマ−リンとして認知されていた。しかしフィジアンを中心とする努力の結果、コナで釣れる巨魚がブルーマ−リンと初めて確認されたときには、センセーショナルな話題となった。G・パーカーの記録が公認されたのは1959年だった。

ブルーの世界最大クラスがハワイ・コナで釣れると初めてわかり、コナへの興味は急速に高まった。59年そうそうにHIBTの構想をまとめたフィジアンは、ハワイ観光局の同意を得て、9月に第1回HIBTを一気に開催した。
その運営方法は、フィジアンのオーガナイザ−としての能力の高さを示してあまりあるものだった。ル・マン方式のスタートフィッシングや釣果報告をしやすいようにフィッシング海域を格子状に区切って海図表示するスタイルは、その後、世界中のトーナメントで真似されるようになった。時間を決めて参加艇が順番に釣果報告を行う「ラウンドアップ」もフィジアンのアイディアだ。ゴルフトーナメントと異なり、釣りではボートのアクションを陸(おか)のギャラリーが見ることは出来ない。その人たちの興味を繋ぎ止める方法として考え出されたラウンドアップだが、当時のコナには船から陸へ通信する手段がなかったので、コーストガードの助けを借りるなど実施には大変な手間をかけたという。

 
ジル・クレイマーの釣った1062.5ポンドのパシフィック・ブルー。この巨大カジキは全長4.5m、胴回りは2mあり、海洋学者に年齢を27歳と推定された。あまりの大きさに「イフ・ヌイ」の艇上に引き上げることができず、「老人と海」のワンシーンのようにボートに横抱きにされてカイルア・ピアへ戻ってきた
  しかし、24チーム(一説には22チーム)が参加した第1回HIBTの結果は芳しくなかった。チーム数が少なかったのは当時のチャーターボートの数が少なかったからだが、釣果の方は、釣りそのものに詳しくなかったフィジアンが釣期を無視し、秋口の観光客を確保したいという勝手な都合でスケジュールを組んだのが災いした。
改めてチャーターボートのエキスパートと相談したフィジアンは彼らの意見を取り入れ、第2回大会から、新月で朝方に上げ汐になるような1週間を大会期間に選ぶこととし、1日の競技時間は上げ汐になるべく2回当たるように、8時間に延長した。開催時期そのものも、餌になる大量の小魚が陸岸に近づく時期を選んだ。
この結果、トーナメントは確実な釣果を得るようになり、ボートの装備やスキッパーの技量も大会の成長と足並みを揃えるかのように向上していった。

HIBTの先進性
調査・研究機関まで作ってしまった底力

第1回大会の失敗はフィジアンに科学的であることの重要さを教えたようだ。チーム参加数などは景気の動向で波があるが(これまでの最高は68年第10回大会の87チーム、次いで88年の82チーム)、ゲームフィッシングを科学的に追求するHIBTの努力は安定しており、年々、厚みを増している。
HIBA(ハワイ国際ビルフィッシュ協会:HIBT等を主催する)は第1回大会の直後からハワイ島近海における回遊魚の本格的な調査を始め、1975年にはゲームフィッシングに関連する「教育・保全・調査」をテーマに研究機関を設立し、現在も大平洋海洋調査財団(PORF)の名称で積極的な研究・調査(データ収集)活動を続けている。HIBTはPORFにとって最重要の調査研究の機会である。

 
  86年からHIBTに採り入れられたタグ&リリース制度もPORFの研究成果の一つ。94年の優勝チームはT&Rポイントのみでトーナメントを制するという快挙を成し遂げている。ちなみに、HIBTのカジキのランディング最低重量規定は200ポンド(約90kg)。これに対しタグ&リリースには300ポイント(50ポンドライン使用)あるいは250ポイント(80ポンドライン使用)のボーナス点が与えられる。80ポンドライン使用では重量1ポンドが1ポイントなので、この方式により若魚が救済されるようになった(50ポンドライン使用ではさらに33.3%のボーナスポイントが加算される)。さらに、PORFのデータによれば1959年から94年までの通算36回の大会で累計2207匹のクロカジキがキャッチされており、その平均サイズは212ポンドとなっている。明らかにタグ&リリースの方が有利になるようにルールが設定されているわけだ。
また、最近ではPORFのサテライト・タグによる衛星追尾調査が大きな成果を上げている。この面でもHIBTは世界のビルフィッシュトーナメントをリードし、その規範になっているといえよう。

HIBTの本当の魅力
伝統が育んだ格式

ピーター・フィジアンはコナの観光プロモーションの一手段としてHIBTをスタートさせたが、HIBTは彼の予想を超える成功を収めた。
大型カジキの魚影の濃さ。釣りの海域が港に近いうえ山々に遮られ風が来ないので、海況がまったく穏やか。レベルの高いチャーターボートとキャプテン。しっかりした組織と進取の気性。ボランティアを中心にした運営の感じの良さ。あくまでもアマチュアにこだわり、賞金大会やジャックポットなどに影響されない潔さ。ハワイアンホスピタリティーの伝統と街を挙げて楽しんでしまう歓迎ぶり。毎回コナ沖で繰り広げられる多くのドラマ。そして練達のアングラ−達に再び会える楽しみ…成功の要因はいくつもあげることが出来るし、参加者にとってはそれがそのままHIBTの魅力になるわけだ。

 

日本からHIBTに参加したマウナ・ケアSFCのパレード
  けれども今となっては、HIBTの本当の魅力は、カジキ釣りに魅せられて繰り返しコナにやって来る参加者達が形作った伝統そのものにあるといえよう。伝統のみが作ることの出来る“格式”とでも言うべき何かがHIBTには備わっているのである。
 

マウナ・ケアSFC(神戸)がHIBT第40回大会に優勝。
日本のスポーツフィッシング史に新たな1頁

※この項の原稿はヤマハ発動機(株)広報室宣伝グループ発行『CAPTAIN'S WORLD』から転載したものです。

 

マウナ・ケアSFCの逆転優勝を決めてくれた697ポンドのマーリンと牛村キャプテン(右端)、幸平アングラー(左から3人目) Photo by Kirk Lee Aeder

トロフィーに囲まれたマウナ・ケアSFCチーム。(写真:牛村氏提供)
 
1998年の第40回HIBTには日本からの10チームを含め、15カ国59チームが参加して8月3日〜7日まで開催された。例年に比べ釣果に乏しい大会となったが(全体としてカジキのランディング6本、T&R 18本)、日本からの3チームにとっては最高の結果が得られた大会になった。神戸のマウナ・ケアSFC(牛村高明キャプテン)が多香千代FC以来11年ぶりの日本チーム優勝を決め、インディージョ−ンズ東京FC(戸田哲也キャプテン)は4位、ダイナスティジャパンGFC(浜松・山田勲キャプテン)も6位に入賞を果たしたからだ。

マウナ・ケアSFCは大会初日にトーナメント最初のカジキをタグ&リリースし、リードしたが、あとが続かず、最終日には8位まで順位を後退させていた。最終日も当たりはなく、いよいよ今年はだめかと諦めかけたストップフィッシング20分前、50ポンドラインに突然のヒット。25分ほどで寄せてみると、チャーターボートのデッキハンドが興奮するほど巨大なブルーだった。いつもはタグ&リリースを信条にしているマウナ・ケアSFCだが、ここは当然、ランディングして高得点を狙う。このカジキ、50ポンドライン・クラスではHIBT史上9番目という697ポンド(約316kg)の巨体で、マウナ・ケアSFCは一挙に逆転優勝を決めたのだった。(アングラーは高明氏の息子さん、幸平くん。甲南大学1年、18歳)

   

ビルフィッシュ部門4位に入賞したインディージョーンズ東京FCの戸田哲也キャプテン。このアヒ以外にカジキを3本リリース(写真:戸田氏提供)
  終了直前のヒット、しかもトーナメントボートが集中していた海域でマウナ・ケアSFCにだけヒットがあったというから、勝負運の強さを感じるが、それだけでは優勝出来るはずもない。巨大魚を50ポンドラインでアッサリ引き寄せたことでもわかるとおり、マウナ・ケアSFCのテクニックは抜群である。
その秘密はオーストラリアにあった。マウナ・ケアSFCは毎年オーストラリアに遠征し、有名なリザードアイランドで超巨大ブラックマ−リンを相手にして腕を磨いているのだ。
実はマウナ・ケアSFCは1997年のHIBTで2位に入賞している。この時も、逆転優勝に王手をかけるカジキをヒットし、同じ牛村幸平くんがファイトしたのだが、あと一息のところでばらしてしまった経緯があった。
 
その時の幸平くんの落ち込みようは大変なもので、うつむいたまま30分以上、何も話さなかったという。父親の牛村キャプテンにとっては95年以来4回出場しているHIBTで最も印象に残る出来事だったとのことだ。今回の雪辱は若いアングラ−を一回り大きく育てたのではないだろうか。
HIBTに憧れ、最初のマイボートからハワイ島の高峰の名<マウナ・ケア>を艇名をしてきた牛村さんにとっても、この優勝は大きな感慨があった。「ピアに帰る途中、海の上ですれ違うボートがみな手を振って祝ってくれて…本当に嬉しかった」。
 
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