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南の記憶―
Remembrance
最初の海を求めて
TAHITI Ha'uti te pape タヒチ−水に遊ぶ

写真・文/須賀安紀

 
 
瞬時のスコールが島を駆け抜け、椰子の葉が黄金色の光を放つ3月の朝、私はタヒチにいた。10代の頃に読み漁ったさまざまな航海誌や“サウス・シーズ”の物語は、漠とした南の島に対する憧憬を限りなく膨らませるばかりであったがやがて、私はマイクロネシアを振り出しに、ビーチコマーを気取りつつ数年間の彷徨を経て日本に戻った。その後、思い入ればかりの売れない雑誌を創り続けて今に至るが、この取材も南に向けて流れる心の、内なる海流に乗った漂流であったような気がする。『タヒチアン・インターナショナルビルフィッシュ・トーナメント(TIBT)』を取材し、タヒチの海でゼーン・グレイが達成したスポーツアングリング史上特筆すべき記録、つまりロッド&リールで仕留められた初めてのグランダーが釣られ、量られた場所をこの目で検証することが主目的であったが同時に、ベングト・ダニエルソンの名著『タヒチのゴーギャン』をこの旅の中で再読することも大きな楽しみであった。タヒチから戻り原色の記憶が交錯する中で、野垂れ死んだゴーギャンの存在が眩い輝きをもって胸に迫るのとは裏腹に、贅を知り尽くした中でのグレイの偉業が私の心の中で次第に色褪せていくのは何故だろう…。

ボラボラの悦楽

読者ニーズが限られた専門紙の発行人は、多くが貧乏暇無しである。手掛ける雑誌が儲からないから勢い、何であれ他の仕事を多くこなして、少しでも赤字を埋める姿勢を見せないと印刷屋が黙っていないからである。“いいですよ、これからの分野ですから腰を据えてじっくりと育てましょうよ。印刷代なんて儲かってからの話にしましょうよ”などという神の啓示にも似た言葉は、天地がひっくり返っても聞ける訳が無い。ただ、発行する雑誌に対する愛着は人一倍強いから、無理をしてでも取材には金を使うことになる。

 
  ボラボラ島には“貧乏人のハードスケジュール”の例にならって、日本に帰国する当日(厳密にはエールフランスのパペーテ発成田着のフライトは翌日の0時05分)の日帰り取材と相成ったが、可能な限り洋上での時間を捻出するため、空港前の桟橋にタヒチ島から電話予約しておいたチャーターボートを横着けさせておいたのは正解であった。
御存知のようにボラボラの空港は、島を取り巻く環礁内のラグーンに浮かぶ小島(Motu Mute)にあるため、空港からは船でボラボラ本島に渡ることになる。エアー・タヒチの人のいいあんちゃん達が機内の荷物を船に積み替えてから20分程のラグーン・クルーズでボラボラ島のバイタペに“入港”する訳である。連絡船が出発するまでの時間を所在無げに過ごす人々を尻目に“ルアーズ35”の、フル艤装チャーターボートである『ジェシー・エル』に私はさっそうと飛び乗った。傍目には、何やらえらく羽振りのいい日本人に見えたことだろうが、当の本人には2日前にチャーターしたヘリの支払いがその時も心に重くのしかかっていたことなど知る由もない…。
 

ボラボラ島の最高峰であるオテマヌを遠くに眺めながら、正午迄に私は2本のカジキを釣った。10時8分、最初にフックアップしたパシフィック・ブルーは誰の目にもリリースサイズであったが、10分足らずのショート・ファイトでリーダーを掴んだため、船尾間際でのファイトが凄まじく、コックピットに飛び込みそうなきわどいジャンプを見せた際にビルがリーダーマンの胸元をかすめるというアクシデントがあった。カジキは反転して再びジャンプし、トランサムにビルを突き刺して折るという事態となった。エキサイトしたデッキハンドが素速くギャフを打ったものの、緊迫したシーンの連続の中で私自身、久しく忘れかけていた野性にも似た感情が分泌され、この小さなカジキを殺すということに何のためらいもなかったことを白状せねばならない。貧すれば鈍するということか…。

かぐわしき香り

『タヒチアン・インターナショナル・ビルフィッシュ・トーナメント(TIBT)』は1986年に、その記念すべき第1回大会が開催された。その後、1990年度を境に、それまで毎年開催されていた同トーナメントは2年に1度の大会となって現在に至る。『タヒチ・ビーチコマー・パークロイヤル』は、そのオフィシャル・ホテルとして親しまれているが設備、ロケーション、ホスピタリティー全てに及第点の与えられるホテルである。リゾートしてのアコモデーションを考えるならば、同ホテルは非常に満足の行くものである。特に、増設された15棟の水上バンガローが素晴らしい。

 

  朝に夕にルームサービスをオーダーすればカヌーに満載した原色のトロピカルフラワーと共にあなたのバンガローを訪ねてくれる。
バンガローのテラスで、紺碧のラグーンを静かに、滑るようにやって来る彼らを眺めながら満ち足りた時を過ごす。バンガローの正面には1958年のフォックス映画『南太平洋』で、神秘的な魅惑の島『バリハイ』として描かれたモーレア島が、夕刻にはブロンズ色のシルエットとなって浮かび上がる。
釣れても釣れなくとも、釣りは釣りである。ただしリゾートは、そのアコモデーションとホスピタリティーを、利用する側の意志で決定できるため、その選択眼で全てが決まってしまう。釣れなくても満足できる釣行も、時にはある。が、心地良いホスピタリティー(必要とする時に、そこに必ず存在するという)無くして満足できるリゾートは有り得ない。

米国人が繁く足を運ぶマリン・リゾートには程度の差こそあれ“釣る”“食う”“寝る”というアングラーの基本的ニーズをストイックな情熱で満たそうとするフィッシングロッジが必ず1つや2つはあるものだが、ここフレンチポリネシアのタヒチでは、先鋭のスポーツアングラーズのニーズを満たす質素にして贅を尽くしたフィッシング・ロッジ、さらには、戦闘的な面構えをしたスキッパー達も見当たらない。それは、厳格な自然保護論者であり、アングラーの定番の記念写真(既に息絶えた釣魚の囲りでアングラー達が満面の笑みを浮かべた、アングラーにとっての宝)を大きな憤りと共に批判して止まないジャック・イブ・クストーを同胞とする輩達の影響か、はたまたソルトウォーター・スポーツフィッシング、さらにはディープ・シー・フィッシングに対する単なる認知の低さによるものなのかは判然としない。ただ、多くのストライクを得ながらも、なかなかフックアップにまで至らない洋上での右往左往を味わうと、理屈抜きに美しい島々に咲き乱れる花々の中に立つ、かぐわしき香りに包まれたワヒネを自分のものとできないやるせなさを感じるのは私だけではあるまい。

 
ロッド&リールで最初のグランダーが記録された海、それがタヒチ
−the only records that can never be broken−are“firsts”

その日の私は気合いが入っていた。起きぬけに冷えに冷えた『HEI LAGER』を“パキッ、グビビッ”とやり、戦場に挑む古武士のようなオーラを漂わせながらビーチコマー・パークロイヤルの駐車場に向かったのである。ただし、レンタカーがプジョーのコンパクト・カーというのが情けない。
目指す彼の地は、パペーテから僅か75km、ひょうたん形のタヒチの一番くびれた地峡であるタラバオ(Taravao)の先、タヒチ・イチ(Itiは小さいの意)のバイラオ(Vairao)にある。ゴーギャン・ミュージアムを過ぎてそのまま右手に海を見ながら走ると、やがて左手に、山側のプーヌイ・リゾート(Puunui)に通じる小道を見つけるが、その正面の海がゼーン・グレイの3本マストの豪華マザー・ヨット、『フィッシャーマン号』がその美しい体を休めたポイントなのである。グレイはこのマザー・ヨットにフィッシング・クルーザーを積み、サウス・シーズに釣行を重ねた訳である…。

 
  起きぬけのビール一杯で車を走らせてきた私は、途中のゴーギャン・ミュージアムで胸の高鳴りを押さえながら、本命の女との契りを果たす前に別な女との逢瀬を果たすような後ろめたさでゴーギャンに会った。展示されている作品は全て傷みの激しい複製で、殺伐とした館内ではあるが、晩年、タヒチからマルケサス諸島のヒヴァ・オア島に移り、やがて死を迎えた彼のアトリアの復元モデルの前で、私の感性は大きな変調を来たしてしまった。

1903年5月8日、早朝の死−11時にこのアトリエを建てた大工のティオカが訪ね、外から「コケ、コケ」とゴーギャンを呼ぶ。返事がないのでティオカは階段を上がり、寝台の外に片脚をたらして横たわっているゴーギャンを発見…。
“愉しみの家”と名付けたアトリエで、精も根も尽き果てたゴーギャンが、体じゅうの痛みをまぎらわすために阿片チンキを飲む様が目に浮かぶ…。享年55歳。
ゼーン・グレイは1939年10月23日、カリフォルニアのカタリナ湾を見おろす別荘で亡くなった。オーストラリアのケアンズへの釣行を控え、気力、体力とも未だ充実した中での心臓麻痺であった。享年67歳。
捉えどころのない原色の魂の衝動に、憑かれたように我が身をまかせたゴーギャン。そして、名声と地位と財力を積み重ねた上で、憑かれたようにビッグフィッシュを追い求めたグレイ…。我われはどこからきたのか、我われは何者か、我われはどこへ行くのか?

 
  5日間のフィッシング・デイを終えたその夜、ハウラ・クラブの会長にして同トーナメントの立役者でもあるアルバンの家で、私たちはワインと食事を愉しんだ。
ジョセフ・コンラッドの『青春』の最終章のようなシーンがそこにあった。
テーブルを囲んだのは南アチームのキャスパー・ウォーカーと2人のチームメイト、それに日本チームの牛村氏、PORFのチャールズに私、そしてアルバンである。
赤銅色に陽焼けした男達の顔があり、アルバンの何人目かのワヒネの、キラキラと輝く瞳の向こうに満天の星が見えた。

いつかまた、彼らと共に酔う日が来るのだろうか? その時は、タヒチの海をサカナに何を語り合っているだろうか?
「結局、あの海で過ごした頃が、われわれの一番いいときだったんじゃないかネ」
すっかり好々爺となった牛村さんがポツリと漏らし、結局、アルバンが人生の一番の達人であったという結論にみんなして大きく頷き合う…。そんな光景がフト脳裏をよぎったのは、飲み過ぎたワインのせいか、はたまた隣に腰かけたワヒネの耳元を飾るタヒチの馨しい香りのせいか…。

 
 
ビルフィッシング・ストーリー
   
南の記憶
タヒチアン・インターナショナル・ビルフィッシュ・トーナメント
タヒチ 輝ける島、輝ける記憶 サウス/シーズの光と影
栄光のビルフィッシュトーナメント  HIBT40 年の伝説
呻く人、ニヒルの人、笑う人。
ゼーン・グレイの足跡を追って
彷徨える夏
 
 
 
 
 
 
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