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「魚心釣心」檜山義夫著(昭和27年)に「アメリカの釣」という一章がある。雑誌「つり人」の昭和25年11月、12月および26年1月号に「米国釣魚事情視察報告」として発表されたものである。その中に「…一つ変った団体はインターナショナル・ゲイム・フィッシュ・アソシェイションである。これは本部をニューヨークのアメリカン・ミュゼウム・オブ・ナチュラルヒストリに置き、世界各国で釣獲された各魚種の記録の報告を受け、記録の上の世界一を決定するのが主な仕事である。記録といっても、もちろん大きさ本位である」という一文がある。
檜山博士は当時IGFA日本支部(JGFA)の記録申請者になっていた。当時は記録申請者は魚学者でなければならなかったからである。
この時代のIGFAの会長はマイケル・ラーナー氏で、檜山氏はこの時かその後かははっきりしないが、ラーナー氏の研究所も見学して来られていた。なお本誌第2号で正確なことを知ったのだが、ラーナー氏は1959年までのIGFAの2代目会長だった。
そのラ−ナ−夫妻が昭和29年に突然日本に来るという手紙を、JGFAによこした。当時の会長は堀田正昭氏だったが、私のところへは檜山氏から電話で知らされた。3月初めのことで、日本で釣りをしたいし、釣り界の状況も聞きたいといって来ている。それで釣り船をさがしてほしいというのだ。
この時はJGFAは名前だけで、実際にはすでに消滅している。トローリング用のクルーザーも会の船もないし、他にファイティング・チェア−をそなえたフィッシング・クルーザーなんてあるわけもない。仕方なければ東海汽船から借りるにしても、ファイティング・チェア−は日本では手に入らないから持って来てもらわなければならない。このことを来日まで日がないので、毎日新聞社外信部を通じてラーナー氏に知らせたら、それなら自分の船を持って行くからよろしい、という返事が来たのには驚いた。が、結局は船を持たずに、3月31日にラ−ナ−夫妻は来日した。
翌4月1日は東京の市内見物。4日には日光に行き、それから箱根見物をして関西を回って、28日に帰国という慌しいスケジュールだから、釣りをする暇なんてあるわけがない。
堀田会長の斡旋で、日本橋の料亭「椿」にラ−ナ−夫妻を招いて午餐会を開いた。出席者は堀田氏、檜山氏、三谷嘉明氏(日本磯釣倶楽部)と永田で、「つり人」社長の竹内始万氏は出席できないで、東作のタナゴ竿と仕掛け箱を贈り物にした。他に村上静人のタナゴ魚拓、浮世絵カレンダー、永田のタイ魚拓と湘南角を贈呈した。
この時の話は日本のトローリング状況の説明をして、カジキやマグロを釣るのはなかなか大変だといったら、それならマイアミに来たらいいじゃないか。飛行機で1日で来れるんだから。という返事であった。私は、そう言われれば、そうですね、といったきりこの話を打ち切った。当時のわれわれの生活でアメリカまで行くことが、どれほど大変なことかを、この人に説明することはとても不可能なことだと思えたからである。 |
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マイケル・ラーナー氏は毛織物商だということだが、大西洋の、アメリカ大陸から50マイル離れた島に、海洋魚類研究所を持っていて、その島はイギリス領だということだが、そこには大きな養魚池が5つもあるという。その池の1つは檜山氏が見て来ているが、大磯町(神奈川県)の港より大きいだろうという。その池に釣ったカジキやマグロを放し飼いにして、研究員に研究させているのだと語っていた。日本の釣り師と生活スケールがまるで違っていて、船を持って行くといわれた時以来、いささかドギモをぬかれた感じのラーナー夫妻だが、人物はおだやかな、まさに大人の風格のある人だった。
ふだん大物ばかり釣っているからだろうか、日本のタナゴ釣りにはひどく興味を持ったようで、話を聞き魚拓を眺めて喜んでいた。 |
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夕方近くなって、わかれる前に、私が持って行った10本ほどの湘南角(大磯の今井源蔵《故人》作)を渡す時に、これは日本の牛の角と馬の爪で作ったもので、貴方の釣餌のサバ、ソウダガツオ、カツオなどを作る擬餌鉤だから、是非使ってみてほしいといって手渡した。
この時に私が撮影した写真が「つり人社」撮影のタナゴ竿などの写真と共に、「ようこそラーナーさん―インターナショナル・ゲーム・フィッシュ・アソシエーション会長の訪日―」という竹内始万氏の短文がついて、昭和29年(1954)5月号「つり人」に発表されている。
ラーナー夫妻と来日中に会ったのはこの時だけであったが、その後も長い間クリスマス・カードを毎年送ってもらったし、時にはゲーム・フィッシュについての質問をしたり、文通は続けていた。ラ−ナ−夫妻のクリスマス・カードがニューヨークから来たことは非常に少ない。ベニスからかと思うと南アフリカから来たり、世界中を夫妻で旅行していた。いつそれが跡絶えたのだろうか。いつIGFAの会長を辞められたのかも知らなかったし、いつとはなしにクリスマス・カードも送られて来なくなった。 |
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ここに紹介したラーナー氏と大イカの写真は、私が大物釣りの記録写真をいただきたい、という手紙を出したのに対して送られてきたものだが、その時の手紙は1962年5月20日付で、――これはペルーのカボ・ブランカ波止場で、夜相当な冒険をして釣ったものだ。最小で長さ6フィート、大きいのは9フィート、重さ100ポンドがある。しかし、これはまだまだ子供のようなもので、大洋には45フィート以上、その倍ぐらいの大イカがいると想像される。日本にそんな大イカの話があったら知らせてほしい。妻ともども貴方と日本の良き友人によろしく。
というようなことが書かれていた。その用箋には次のように印刷されていた。 |
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※この文章は1984年当時、私(須賀安紀)が編集・発行していた季刊誌「GAME FISH & BLUE WATER」に、『日本におけるIGFAの始まり』として連載して戴いた中の一文である。1939年6月7日、アメリカ自然史博物館で開かれた会議の中で正式に誕生したプレジャー・フィッシングの普及、振興を唯一の目的とするIGFAが、当時の日本にどのような形で入ってきたのかは興味深いものがある。永田一脩氏は1988年4月9日、84歳でお亡くなりになられたが、その前年、遺作となってしまわれた『江戸時代からの釣り(新日本出版社)』という大著を上梓されているので是非とも御一読願いたい。 |
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