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HOME BIG BLUE 巨魚に魅せられた男達 マイケル・ラーナー( 1 )  IGFA の立役者
  博物館との遠征釣行は、カメラマンをも含めた大規模なものであった。
博物館との遠征釣行は、カメラマンをも含めた大規模なものであった。

IGFAの立役者
MICHAEL LERNER

マイケル・ラーナー

(1892〜1978)

文・構成/(株)八点鐘

 
 
 

as Founder, President, and Trustee of IGFA,
and Great Contributer for the development of Marine Biology.

IGFA(International Game Fish Association)の創設者であり、会長であり(1940〜1960)、物心ともに多大なる貢献を果たしたマイケル・ラーナー。彼はまた、海洋生物学の発展においても重要な役割を担った。

Text from "Profiles in SALT WATER ANGLING" by George Reiger
Photographs from "IGFA YEAR BOOK"

マイケル・ラーナーとソードフィッシュ(メカジキ)。1941年、ノバ・スコシアのケープ・ブレトンにて。1936年と1938年に行なわれたアメリカ自然史博物館との遠征釣行において、ラーナーはこの海域におけるソードフィッシュの釣りを開拓した。
マイケル・ラーナーとソードフィッシュ(メカジキ)。1941年、ノバ・スコシアのケープ・ブレトンにて。1936年と1938年に行なわれたアメリカ自然史博物館との遠征釣行において、ラーナーはこの海域におけるソードフィッシュの釣りを開拓した。
 

ロッドやリールといった道具の発達に伴い、19世紀後半から20世紀半ばのいわゆる「ディープ・シー・アングリングの黄金期」に、スポーツフィッシングは創生され、普及した。舞台の中心が新大陸アメリカであったのも、アメリカ人特有の進取の気質が働いたせいであろうか。中でもIGFAがはたしてきた役割には特筆すべきものがある。そのIGFAの設立(1939年)における中心人物、それがマイケル・ラーナーである。毛織物商として成功した彼は、スポーツフィッシングの普及と海洋生物学の発達に献身的なまでに貢献したのである。

漁師が持ち帰る魚とは違い、学者たちは完全な形での標本を手に入れることができた。
漁師が持ち帰る魚とは違い、学者たちは完全な形での標本を手に入れることができた。

ビミニへの愛着

マイケル・ラーナーが釣りに熱中しはじめたのは、今世紀の初めの頃、ニューヨーク州のシープスヘッド・ベイで父親と共にフラウンダーとポーギーを釣ったのがきっかけだった。この時の興奮は、後年、遥か遠い海で数々の巨大魚を釣り上げた時に味わったものと、少しも変わらぬものであった。

1920年代の初め、ニューヨーク州のロングアイランド沖でブルーフィン・ツナを初めて釣った時には、ある種の神々しささえ感じた。魚はわずか70Lbに過ぎなかったが、そのスピード、力強さ、そしてスタミナに驚かされ、それ以来、海のビッグゲーム・フィッシングにのめり込むようになったのである。
1920年代の後半には、フロリダのキーズへ遠征するようになったが、当時の多くのアングラーと同様に、ガルフ・ストリームではさらにビッグなゲームが展開されているという噂を耳にした。そうして、1930年代の初頭、ラーナーは初めてビミニに出かけたのである。この遠征の結果、彼はビミニに対して終生変わらぬ愛着を持ち続けることになった。
ビミニ諸島には数多くのアングラーが訪れていたが、そのほとんどは現地の人々に何の印象も残さずに立ち去っていった。しかし、マイケル・ラーナーは彼らとは違っていた。それは、彼が毎年のように繰り返し島を訪れていたという理由だけではなかったし、ラーナー夫妻がビミニきってのアングラーという理由だけでもなかった。それは、初めての遠征時から彼が示したビミニへの愛着と、島民たちの福祉に対する真摯な態度であったと言えよう。例えば、1935年のハリケーン災害時には、イギリス政府よりも迅速に救援活動を始めたのである。ビミニに自宅を建ててからというもの、その家はほとんどバハマ諸島における非公式なアメリカ大使館として機能していたほどである。
ラーナー夫妻は、ビミニ以外の他の南の島々でも様々な釣りをしている。アーネスト・ヘミングウェイやフリオ・サンチェスとの交友が深まるにつれ、夫妻はキューバ海域でも釣りをするようになった。1936年、ラーナーはあのキップ・ファリントンをして「ソルトウォーター・フィッシング史上、最も注目すべき大記録」と言わしめた素晴らしいパフォーマンスを披露した。ラーナーは3番スレッドライン(今日の9Lbテスト)で48Lbのホワイトマーリンを釣り上げたのである。その記録はライトタックルの可能性を当時の人々に知らしめたといえよう。フロリダ・キーズからオーストラリアまで、今日のライトタックル・トーナメントの隆盛は、多分にラーナーとその記録によるところが大きい。

アメリカ自然史博物館との関係

しかし、釣行を重ねるにつれ、ラーナーの関心はしだいにソードフィッシュ(メカジキ)に絞られていった。キップ・ファリントンでさえ、最初の1尾を仕留めるまでに6年を費やし、巨大ブルーマーリンに熱中していたヘミングウェイが、それについて語る時には身震いしたほどのゲームフィッシュである。
しかし、ラーナーを魅了したのは魚体の大きさやスピードではなかった。彼が惹かれたのはソードフィッシュのとらえどころのない神秘性であった。どこで産卵するのか? 成長の速度は? どのくらい深く潜るのか? 移動ルートや捕食場所、そして群れを形成する場合は? 他のゲームフィッシュよりもエサを食わせたりフックアップするのが難しいのはなぜか? もちろん、他のビックゲーム・アングラーたちも皆、これらの疑問を抱いてはいたが、ラーナーほど真剣にそれらの答えを探求したものはいなかった。

 

20世紀初頭、ビミニは釣り師の楽園だった。1936年には「バハマ・マーリン&ツナ・クラブ」が設立された。ラーナーやヘミングウェイもそのメンバーだった。
20世紀初頭、ビミニは釣り師の楽園だった。1936年には「バハマ・マーリン&ツナ・クラブ」が設立された。ラーナーやヘミングウェイもそのメンバーだった。

ラーナーはソードフィッシュに対して、何よりもの情熱を注いだ。
ラーナーはソードフィッシュに対して、何よりもの情熱を注いだ。
 

とはいえ、彼のソードフィッシュへのあくなき情熱は、意外にも1尾のブルーマーリンから始まっている。
1935年のある午後、ニューヨークにあるアメリカ自然史博物館の守衛は、5階の魚類部門に内線をかけた。「博物館にサカナを寄付したいとおっしゃる紳士がお見えですが」と……。ラーナーを迎えた魚類部門の主事補に、彼はビミニ沖で釣り上げたブルーマーリンのことを謝罪に近い調子で説明し、その剥製をぜひ博物館に寄付したいと申し出た。その時の主事補こそ、フランセスカ・ラモンテ女史であり、この件以来、ラーナーと同博物館は様々な交流を持つようになったのである。

 

ラーナーは、さっそく計画中のノバ・スコシア、ケイプ・ブレトン遠征に際し、ソードフィッシュの生態調査として、博物館スタッフの随行を、魚類部門部長であるウイリアム・キング・グレゴリー博士に提案した。ラーナーの真摯な申し入れに、グレゴリー博士はラモンテ女史を含む5人の魚類生物学者を送り出した。こうして、1936年の8月、一行はケイプ・ブレトンの大西洋側にあるルイスブルグという小さな漁村を目指したのである。
ルイスブルグで5週間を過ごした後、一行はウエッジポートへも遠征した。後年、ウエッジポートはインターナショナル・ツナ・カップ・マッチの開催地として有名になるが、この地をブルーフィン・ツナの漁場として開拓したのは何を隠そうラーナーである。

IGFAの創設

博物館スタッフとの合同調査はこの後にも行なわれ、1939年には、ニュージーランド、オーストラリア、バリ島などへも遠征した。
そして、この遠征中にIGFAの構想が固められていったのである。

ソルトウォーター・フィッシングを統括する国際的団体を作ろうという考えは、アメリカならびに英連邦諸国の間でしばしば話し合われていたことであった。この考えを具体的な計画へと発展させたのがラーナーである。アメリカ自然史博物館のグレゴリー博士と、オーストラリアの高名なアングラー、クライブ・ファースとの些細な会話がきっかけとなったのだ。ファースはこの計画に対して最も熱心であったが、当時のヨーロッパおよび極東には戦雲の兆しが漂っていたため、組織の本部はアメリカに設置すべきだと主張した。この案に賛同したラーナーは設立資金を提供し、1939年7月、アメリカ自然史博物館の事務室において、最初のIGFA組織会議を開いた。出席者はグレゴリー博士(初代会長に就任)、マイケル・ラーナー、アーネスト・ヘミングウェイ、ヴァン・キャンペン・ハイルナー、そしてフランセスカ・ラモンテといった面々である。その後、フィリップ・ワイリーが初代フィールド・リプリゼンタティブに就任し、翌年にはラーナーがグレゴリー博士の後を次いで会長となった。

 

 
1950年代の後半になると、博物館内の事務室では手狭になり、ラーナーの本拠地マイアミに引っ越すことになった。会長のマイケル・ラーナーはIGFAの資金確保の一助としてIGFAイヤーブック、記録リスト、IGFA魚類学論文集などを発行した。
1961年、マイケル・ラーナーの後継者としてウイリアム・K・カーペンターが会長に就任し、彼が財政面での役割をも担うことになった。その後、IGFA本部はフォート・ロウダーデールへと再度移転したが、業務の拡大と共に今年(1999年)4度目の移転をし、現在に至っている。
ラーナーが開発したフィッシングキット。
ラーナーが開発したフィッシングキット。
 

南米遠征

IGFAの規約のひとつに、IGFAのオフィシャルは世界記録を保持してはならないというのがあった。実際、この規約のために、オフィシャルになることを諦めねばならない人々もいたという。記録管理にあたっての絶対的な公平性を保つためには、それも必要なことなのであろう。しかしながら、図らずもその規約は幾人かのIGFAオフィシャルたちの気持ちをホッとさせもした。なぜなら、アングラーの全てが毎回の釣行のたびに記録への挑戦を望んでいるわけではないからである。ただ釣りを思い切り楽しみたいことも時にはあるのだ。1940年の春、アメリカ自然史博物館初のチリおよびペルー遠征をラーナーが指揮した際も、彼は規約のそうした側面を十二分に楽しんだと言える。

 
当時、南米海域のビルフィッシュにまつわる幾つかのニュースが伝えられるにつれ、学者たちは南米の西岸を洗うフンボルト海流こそが、多くのゲームフィッシュとそのエサに対して、世界有数の生育環境を提供しているのではないかと推測し始めていたのである。
遠征メンバーはラーナー夫妻をリーダーに、魚類生物学者のフランセスカ・ラモンテ女史、カメラマン3名、ガイド2名の総勢8名であった。大量の荷物は8等分され、綿密なリストの下に、メンバーが各自の受け持つ分を毎日チェックし、紛失や盗難を防いだのである。ラーナーの遠征は、いつでもこのように用意周到なものだった。現地での受け入れ態勢、税関、法律などについても完璧に調査してあったのだ。
ある人が、この遠征を「冒険」と形容すると、ラーナーは即座に訂正した。「冒険とは、細心の準備をもってきちんと計画されていないものを表わす言葉ですよ」と。
この最初の南米遠征の成果は素晴らしいものであった。ヘレン・ラーナーは大西洋と太平洋のふたつの海でソードフィッシュを釣り上げた最初の女性アングラーになったと同時に、403Lbのストライプト・マーリンの世界記録も達成したのである。マイケル・ラーナーも1日のうちに2尾のソードフィッシュを釣るという貴重な記録を作った。数多くのソードフィッシュの他にも、巨大なルースターフィッシュや新種のグルーパーなども捕獲した。おかげでラモンテ女史はオーバーワークの毎日であった。
この南米遠征におけるもっとも奇怪な出来事は、なんといってもぺルー沖での巨大イカ釣りであろう。同海域で夜釣りを行なった最初の日、ラーナーたちはイカの大群を追っていた。イカの大きさにはまったく関心を払っていなかったが、イカがソードフィッシュの好物である以上、そこに多くのビルフィッシュが集まるのは間違いないと確信していたのである。ところが、そこは地元の漁師たちが恐れて決して近づこうとはしない、巨大イカの住む海だったのである。
ラーナーが最初にイカをハリに掛けた時、彼はそれがいったい何なのかさっぱり分からなかった。それはいきなりベイトに食いつくと猛烈な勢いで突っ走り、ほどなくしてフッとラインを弛ませたのだ。魚なら決してそんなファイトをしないはずである。しばらく、そんなやりとりを繰り返しているうちに、その正体不明の獲物がやっとボートの照明灯の近くまで寄ってきた。それはなんと20ft(約6m)の巨大なイカだった。驚いたのは、他の巨大イカが、ハリに掛かってもがいている仲間に次々と襲いかかり、共食いしていることだった。この光景を前に、一同は背筋を寒くした。闇の中で荒々しく飛沫を立てて巨大なイカが共食いをしている様は、あの獰猛で名高いサメよりもさらにおぞましい眺めであった。地元の漁師たちが決して夜釣りをしないのも無理からぬ話であった。

ラーナーの喜び

第2次世界大戦後、アメリカ自然史博物館はしだいに手狭になり、研究のためのスペースが取りにくくなってきた。そんな状況を見たラーナーは、再度援助を申し入れた。
1930年代の中頃から、彼はビミニで海洋生物学者にとっては桃源郷とでも呼べるような研究施設の建設を進めていた。そこには研究目的のための巨大な海水プールが幾つかあり、珊瑚礁の小魚からマーリンにいたるまで、あらゆる魚類を成育させる実験を行なっていた。この施設の第一の目的は魚類の調査研究にあったが、同時にマリーンランドやシーワールドのような娯楽的、初歩教育的な要素をも兼ね備えたものであった。やがて、ラーナーのこの施設はビミニ観光には欠かせない名所にまでなったのである。

 

一堂に集ったIGFAの役員たち。
一堂に集ったIGFAの役員たち。

 
ニューヨークのアメリカ自然史博物館の研究室が手狭になったという話を聞いたラーナーは、1940年代に、この施設を同博物館のカリブ海研究所として使用できるようにした。研究者たちにとっては、夢のような話だった。ラーナーにしても、魚類の不思議を研究する学者たちと、より密な連絡を取りたいと常々願っていたのだ。ビミニの土地を購入した時、彼の心には既にこの計画が描かれていたに違いない。
ビミニの広大な敷地は港からまっすぐキングス・ハイウェイを進んだところにあり、目の前には一望の太平洋が広がっている。敷地内には、広壮な家屋とそれに付随する納屋、古い石造りの館、別棟の倉庫などが建ちならぶ。広壮な家屋はラーナー・マリーン・ラボラトリー「レジデンス」である。石造りの館には、事務室、資料室、各種実験室などが設けられている。その後、管理人用に2棟のコテージが追加され、ドックには大型のボート1隻と小型ボート数隻が係留された。
1960年代には、これらの施設もさらに手狭になり、再び大改装がなされた。研究所ばかりでなく、研究者用の宿泊施設も整えられ、実に居心地のよいものになった。
IGFAとラーナー・マリーン・ラボラトリーの設立以降、ラーナーが行なった最大の業績は、なんといっても第2次世界大戦中の救命ボート内に備え付けられた「サバイバル・フィッシング・キット」の開発であろう。釣友のキップ・ファリントンやフィリップ・ワイリー、ボートキャプテンのビル・ハッチやエディ・ウォールの協力のもと、ラーナーは世界中の海で、どんな人間でも使用できるシンプルでタフ、かつ軽量の釣り道具を考案したのである。このキットは大小2つのサイズがあり、大型は米軍の戦艦に積まれたすべての救命ボートに、小型は飛行機に積まれたゴムボートに備えつけられた。
アメリカ自然史博物館と共に行なった計7回の遠征釣行をはじめとする海洋生物学への貢献、そして自らが打ち立てた偉大なスポーツフィッシングの記録などによって、マイケル・ラーナーは数々の表彰を受けた。ノバ・スコシアとフランスのブリタニーでは名誉市民に選ばれ、チリ政府からはアル・メリト勲章を、アメリカ政府からはトルーマン大統領直々にメリット勲章が授けられた。また、マイアミ大学からは名誉博士号が贈られ、国際海洋学基金から「海洋学に多大なる貢献を果たしたアングラー」に贈られるゴールドメダルの初代受賞者にも輝いた。
自分の釣り人生を振り返ってみた時、釣り人は誰しも自分が何らかの意味を見出していたものだけを詳細に思い出すものだ。ラーナーもやはりそうであった。ラーナーはビミニにおける最大のマコシャークを釣り上げたことがあるが、そのこと自体よりも、その腹の中にソードフィッシュの幼魚を見つけたことのほうがはるかに強烈に記憶に焼きつけられていたようだ。なにしろ、そのことによって、西大西洋のどこかにソードフィッシュの産卵場所があることが世界で初めて分かったのである。
より大きな魚を釣ることが、より大きな喜びをもたらすとは限らない。時には、目的の魚より、そのエサを釣るほうがエキサイティングなこともあるし、船上で交わすクルーたちとの会話や、潮風や陽光の方がさらに大きな喜びを与えてくれることさえあるのだ。
ひょっとすると、マイケル・ラーナーの心に最も深く刻みつけられた釣りの思い出は、はるか昔、父親と一緒に出かけたシープスヘッド・ベイでの1日であったかもしれない……。
 
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