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HOME BIG BLUE 巨魚に魅せられた男達 アーネスト・ヘミングウェイ( 3 ) キーウエストのヘミングウェイ
 
ホワイトヘッド通り907番地にあるヘミングウェイの邸宅は、現在、キーウエスト観光の目玉となっている。ヘミングウェイの猫好きは有名で、ココヤシとバニヤンの繁る広い庭には、いたるところで猫たちが昼寝をしている。青々と水をたたえたプールは、1937年に造られた。外出しがちな夫を家に留めておくために、2番目の妻ポーリンが注文したものだ。しかし、その年には後に3番目の妻となるマーサ・ゲルボーンとの関係がすでに始まっていた。新しい女と出会い、初めて海を知った最果ての島、それがキーウエストだ…。

HEMINGWAY IN KEY WEST

キーウエストのヘミングウェイ

PHOTO & TEXT/雨貝 健太郎

『SPORT ANGLERS』誌
(編集・発行・発売(株)八点鐘)より

 
 
 

907 WHITEHEAD ST.
Key West, Florida

キーウエスト。フロリダ半島の南端から、120マイルに渡って南西へと連なるキーズの最果て。ココヤシとライムが繁り、メキシコ湾と大西洋に接しながらも、ガルフストリームによって運ばれるカリブの風を常に感じるアメリカ最南端の小島。それがキーウエストである。
キーウエストと聞いて、すぐにアーネスト・ヘミングウェイを思い浮かべる人々は意外にも多いが、彼がこの地で過ごしたのは、1928年4月から1939年12月までのわずか12年足らずにすぎない。ヘミングウェイの61年に渡る生涯の中で、12年という年月を短いと判断するべきか否かは迷うところだが、作家としての一歩を踏み出したパリ時代から、熟年のキューバ時代へと移行する、ちょうど過渡期的な役割を果たしたのが、キーウエスト時代の12年間と言えるだろう。
「スロッピー・ジョーズ」のジョー・ラッセルをはじめとする仲間たちとの交遊は、パリ時代のガートルード・スタインやジェームス・ジョイス、エズラ・パウンド、スコット・フィッツジェラルドといった同時代作家達とのどこか緊張した関係とはまったく異質の、放埒で自由で伸び伸びとした喜びをヘミングウェイに与えたにちがいない。
こうした自由な空気が刺激となり、キーウエスト時代はヘミングウェイの生涯で最も多作な時期でもあった。まず、1929年に出版された『武器よさらば』に始まり、闘牛論を展開した『午後の死』(1932年)、短編集『勝者には何もやるな』(1933年)、アフリカでのサファリ体験をもとにしたノンフィクション『アフリカの緑の丘』(1935年)、短編小説『キリマンジャロの雪』(1936年)と『フランシス・マッコーマーの短い幸福な生涯』(1936年)、キーウエストを舞台にした『持つと持たぬと』(1937年)、唯一の戯曲『第五列』(1938年)、そして『誰がために鐘は鳴る』(1940年)である。これらの作品群は、まさにヘミングウェイ文学の中核をなすものであり、彼の作家としての地位と人気は、人目を引く行動や暮らしぶりとともに広く一般に知れ渡り、揺るぎないものとなった。

  実り多きキーウエストでの生活ではあったが、ヘミングウェイにとっての最大の収穫は、おそらく、海という未知なる自然との出会いであったにちがいない。イリノイに生まれ北ミシガンで育ったヘミングウェイは、幼い頃から鱒釣りや狩猟といったアウトドアライフに身を浸してきたが、洋上でのカジキ釣りは彼の心を虜にする強烈な魅力があった。やがてヘミングウェイはほぼ毎日を愛艇「ピラー」の上で過ごすようになり、彼の人生にとって、洋上での時間が何よりも重要な位置を占めるまでになっていった。
『老人と海』や『海流の中の島々』が書かれたのは、後年、キューバのフィンカ・ビヒアに居を移してからのことだが、そうした作品へと結実する基礎を築いたのは、たしかにキーウエストでの生活だったのである。
 

THE PILAR For Escape

かつてフィッツジェラルドは言っている。ヘミングウェイは長編を書くたびに新しい女が必要なのさ、と。1928年に発表された2作目の長編小説『武器よさらば』を書きあげるために必要だったのは、「ヴォーグ」誌のファッション担当記者ポーリン・プファイファーであった。ポーリンとの関係は、最初の妻ハドレー・リチャードソンとの結婚生活が続いている間からすでに始まっており、そうした不倫とも言える状態が約2年間続いた後、1927年1月に正式に離婚。ポーリンとは、その年の5月10日にパリで正式に結婚している。

この新しいカップルにキーウエストへの移住を薦めたのは、パリ時代より親交のあったアメリカ人作家ジョン・ドス・パソスであった。ドス・パソスは以前にキーズをヒッチハイクで旅した経験があり、キーウエストの記憶を夢の土地としてヘミングウェイに語ったのである。
ヘミングウェイ夫妻がキーウエストに到着したのは1928年4月のことだった。当時はオーバーシーズ・ハイウェイ(フロリダ半島からキーウエストまで、キーズを貫通する道路。完成は1938年)がまだ通っておらず、夫妻はキューバのハバナを経由するフェリーに乗ってキーウエストに到着した。南北に1マイル半、東西に4マイルという最果ての小島は、まさにアメリカ本土と隔絶した別世界であった。しかも、時は禁酒法の時代であり、ハバナからわずか90マイルという位置に合ったキーウエストでは、酒の密輸密売がなかば当然のごとく行なわれていた。
「キーウエストは素晴らしい場所だ…。私が作家だと言っても、誰も信用しない。皆、私を酒か麻薬の密売人だと思っているんだ」キーウエストに初めてやってきた時の印象をヘミングウェイは後にこう語っている。
現在、観光名所として知られる「ヘミングウェイ・ハウス」に夫妻が住み始めたのは、1931年4月のことである。ホワイトヘッド通り907番地にあるスパニッシュ・コロニアル様式の豪邸は、ポーリンの叔父ガス・プファイファーがヘミングウェイ夫妻に買い与えたものであり、ヘミングウェイが自己資金で購入したものではない。『日はまた昇る』(1926年)を発表し、ロストジェネレーションの代表格としてフィッツジェラルドとともに並び称されたヘミングウェイではあったが、キーウエストに邸宅を構えるほど経済的余裕はなかった。

  愛艇「ピラー」を購入したのは、キーウエストに移住してから6年後の1934年。それ以後、ハバナ沖やビミニへの遠征釣行が頻繁に続いた。作家にとって、「ピラー」は逃避行のための手段でもあった…。
愛艇「ピラー」を購入したのは、キーウエストに移住してから6年後の1934年。それ以後、ハバナ沖やビミニへの遠征釣行が頻繁に続いた。作家にとって、「ピラー」は逃避行のための手段でもあった…。

帽子の男はアメリカ人闘牛士のシドニー・フランクリン。闘牛は釣りと狩猟に並ぶもうひとつのキーワード。
帽子の男はアメリカ人闘牛士のシドニー・フランクリン。闘牛は釣りと狩猟に並ぶもうひとつのキーワード。

 
ポーリン自身、アーカンソー州の大地主の長女であったが、ニューヨークで3つの会社を経営する叔父のガス・プファイファーは、ポーリンとアーネストに対して経済的な援助を惜しまなかった。1933年11月から1934年2月までの約4ヶ月に及ぶアフリカ狩猟旅行の資金を提供したのも、やはりガスであった。もしも、こうしたガスの援助がなければ、ヘミングウェイの作品のいくつかは書かれていなかったかもしれない。
キーウエストの家では、離れの2階がヘミングウェイの書斎になっていた。母屋にある寝室や食堂のインテリアは、すべてポーリンの趣味によるものであり、パリから取り寄せたスペインのアンティック家具によって統一された。バニヤンとココヤシが繁る広い庭に、長さ65フィート、幅20フィートの塩水プールをつけ加えたのもポーリンだった。マイアミからパナマまでで唯一のプールだと、当時ポーリンは自慢にしていた。
ヘミングウェイはパリ時代の知人友人たちに招待の手紙を何通も書き、「貧乏人のサントロペ」と呼んでこよなく愛したキーウエストに多くの人々を招いている。中でも、最も頻繁に訪れたのは、キーウエストへの移住を薦めた張本人、ドス・パソスであった。ドス・パソスはここで、アーネストの幼友達であり、また偶然にもポーリンの大学時代のルームメイトでもあるケイティー・スミスと出会い、やがて結婚することになる。<br>
 しかし、キーウエストに移ってからのヘミングウェイは、ドス・パソスや一部の人々を除き、パリ時代に親交があった文壇仲間をまるで忘れてしまったかのように交際を絶つ。文学上の師匠とも言えるガートルード・スタインやシャーウッド・アンダーソンとは、『春の奔流』(1926年)の中で彼らをパロディーとして書いて以来、絶交状態であったし、『華麗なるギャツビー』で知られる人気作家スコット・フィッツジェラルドとも、彼の妻ゼルダとアーネストとの馬が合わず、手紙のやり取りだけがなんとか続いていた。

結局、ヘミングウェイの生涯の中で、大都会と呼べるほどの街で生活したのは、「カンザスシティー・スター」誌の記者として働いた6ヵ月と、作家を志しモンパルナスの文壇で修業を積んだ6年間にすぎない。キーウエストに移り住んでからというもの、ヘミングウェイの指向は都市生活者のそれとは完全に異質の何かを目指していたと言える。
それは陽気なスペイン語の歌声や熱帯の空気、ラム酒と葉巻の匂い、そして青い海流に代表される、色とりどりで力強い何かである。パリ時代の窮屈な文壇社会の中で押し込められていたものが、キーウエストの自由な空気に触れたことによって、一気に走り始めたのである。だが、ヘミングウェイのこうした逸走の契機となり、さらに遠くへと加速させたものは、「スロッピー・ジョーズ」で出会った素朴な友人たちや、愛艇「ピラー」の上で過ごす濃密な時間であった…。

 


32フィートのチャーターボート「アニータ」のオーナーキャプテンであり、酒類の密輸密売人でもあったジョー・ラッセルが、「スロッピー・ジョーズ」を合法的にオープンしたのは1933年の12月5日、午後5時32分のことだった。1920年から続いた禁酒法が終わりを告げた、まさにその時である。禁酒法の時代からジョーの店で酒と賭博を楽しんでいたヘミングウェイは、リニューアルしたバーに親しみを込め「女々しいジョー」という名をつけた。

 

THE MOB
Sloppy Joe's

1934年4月。アーネストはブルックリンのウィーラー造船所に38フィートの細身のフィッシングクルーザーを発注する。後に「ピラー」と命名され、ヘミングウェイの人生までをも決定づけてしまうことになる運命の船である。
「ピラー」の建造には、当時の金額で$7500を必要としたが、ヘミングウェイは自分の貯金から$3200を引き出し、残りの$4300は「エクスワイヤ」誌の発行人アーノルド・ギングリッチから原稿料の前払いを受け、それで支払った。
「エクスワイヤ」誌への寄稿は、1933年の秋号から始まっており、以後、不定期ではあるが1936年5月号まで、計17本のエッセイが掲載されている。しかも、そのうちの5本はガルフストリームでのカジキ釣りに関する記事であり、他にアフリカでの狩猟に関するものが4本あることを考えてみても、それら2つの遊びに対するヘミングウェイの入れ込みようがどれほどのものであったかが容易に想像できる。
その他の雑誌で発表されたものを含め、ヘミングウェイが書いた最初のカジキ釣り関連の記事「モロ沖のマーリン」が掲載されたのは、「エクスワイヤ」誌の1933年秋号である。「ピラー」がキーウエストに到着したのが1934年の5月9日であることから、ヘミングウェイは自艇に乗る以前からカジキ釣りをすでに知っていたことになる。たしかに「モロ沖のマーリン」の中では、「スロッピー・ジョーズ」のジョー・ラッセルが所有するボート「アニータ」での釣りが詳細に描かれており、ヘミングウェイにオフショアフィッシングの楽しさを教え、自らの艇を所有させるまでに狂わせた人物が、このジョー・ラッセルであったことが伺える。

現在では、チャーターボート・キャプテンとしてのジョー・ラッセルよりも、「スロッピー・ジョーズ」の経営者としてのジョー・ラッセルのほうがよく知られているが、禁酒法の時代にバーを成功させることができた背景には、釣りを装ってハバナから酒を密輸するという賢い作戦があったようだ。キーウエストを舞台に書かれた『持つと持たぬと』の主人公ヘンリー・モーガンは、ジョー・ラッセルがモデルなのである。

 

 

このジョー・ラッセルの他にも、当時のキーウエストにはヘミングウェイを魅了する一風変わった面白い人々が大勢集まっていた。中でも、ジョー・ラッセルと同じくヘミングウェイにオフショアの釣りを始めさせるキッカケとなったキャプテン、エディー「ブラ」サンダースや、ボート修理屋のジム「サリー」サリバン、地元の金持ちで狩猟好きのチャールズ・トンプソンなどは、「マハトマ」「アーニー」「オールドマスター」などの愛称で親しまれたヘミングウェイとともに、三々五々「スロッピー・ジョーズ」に集まっては賭博に耽り、自他ともに「ザ・モブ(チンピラ)」と呼ぶグループを形成していた。 最果ての小島での、こうした素朴で個性的な人物たちとの交遊は、パリ時代には決して得られなかった高揚とした気分を作家に味わわせ、生来から外出好きであったアーネストの足をさらに動かすことになった。「スロッピー・ジョーズ」でのバカ騒ぎ、ハバナやビミニへの遠征釣行。ヘミングウェイの指向は常に外を向いていた…。

OUT IN THE STREAM
To Havana, Cuba

しかし、ヘミングウェイに「ピラー」の購入を決意させ、ハバナやビミニへの遠征釣行を頻繁に繰り返させたのは、カジキ釣りの面白さばかりが理由ではなかった。1931年9月、ヘミングウェイはニューヨークを経由する豪華客船上で、ハバナに住む24歳の人妻ジェーン・メイソン(夫はパンナム航空の役員)と巡り合う。以後、2人の関係は5年に渡って続くことになるが、ハバナの「アンボス・ムンドス・ホテル」での密会は、「ザ・モブ」の仲間内では公認の事実であり、「ピラー」の上でカジキと一緒に2人が写っている写真さえ残っている。
ヘミングウェイをジェーンに狂わせたのは、24歳という若さと美貌、そして釣りと狩猟を好む彼女の性格であった。1931年当時で、ポーリンはすでに40歳であり、ヘミングウェイは若さという何物にも代え難い魅力をジェーンに感じていた。さらに、ジェーンは、アウトドア好きの作家が女性に対して望むほとんどすべての条件までも満たしていた。釣りと狩猟を好み、酒飲みで、口が悪く、激しい情事を要求した。ヘミングウェイが「ピラー」を手に入れたもうひとつの理由は、ジョー・ラッセルの手を煩わせずに、好きな時にハバナのジェーンを訪ねるためだったのである。「ピラー」という逃避行の手段を手に入れたヘミングウェイは、カジキ釣りとジェーンにさらに深く心を捧げていく。
だが、5年間にも及んだジェーンとの関係は、口論によって突然終わりを告げる。1935年に、ジェーンがアフリカへ狩猟旅行に行った際、英国人のハンターと関係を持ったことが口論の原因であった。ヘミングウェイは自分を裏切ったジェーンに対して、彼なりの方法を用いて復讐する。翌1936年「コスモポリタン」誌に発表された『フランシス・マッコーマーの短い幸福な生涯』に登場する悪女マーゴットは、ジェーン・メイソンがモデルである。

 
1934年5月23日、ヘミングウェイはキーウエスト沖で119 1/2Lbのセイルフィッシュをキャッチした。これは当時の最大魚であったが、フックアップさせたのが別のアングラーであったため、記録としては成立しなかった。

ジェーンとの不倫が終わったのも束の間、1936年12月には、ヘミングウェイの前に別の女性が現われる。後にヘミングウェイの3番目の妻となり、3作目の長編『誰がために鐘は鳴る』(1940年)を書き上げる動機と契機を与えた人物、28歳のジャーナリスト兼作家、マーサ・ゲルボーンである。
マーサとの出会いの場は、なんと「スロッピー・ジョーズ」であった。母親と弟を連れキーウエストへ旅行に来ていたのである。当時、キーウエストには、『日はまた昇る』と『武器よさらば』を大ヒットさせた人気作家を一目見ようと、多くの人々が訪れており、1935年にはホワイトヘッド通り907番地の家の周りにも、プライバシーを守るためにレンガ塀が立てられた。マーサ・ゲルボーンも、ヘミングウェイを崇拝するそうしたファンの1人であった。

 


1935年、ビミニにて。IGFA設立の中心人物であるマイケル・ラーナーとの出会いはビミニであった。1939年7月に開かれたIGFAの最初の組織会議にヘミングウェイは出席し設立者の1人となった。

 

事実、「スロッピー・ジョーズ」でのアーネストとマーサの出会いが、ポーリンやジェーンの時ほどロマンティックなものではなかったことを証言している人物もいる。「ザ・モブ」の一員で、ヘミングウェイの子分的な存在であったオットー「トビー」ブルースによれば、マーサはアーネストに会わせてほしいとバーテンダーのスキナーに頼んでいたという。それを聞いたトビーは気をきかせてホワイトヘッド通りへ赴き、ブロンドの美人が「ジョーズ」で待っていると、ヘミングウェイに伝えたのである。作家はいつものようにカーキ色の短パンにモカシンを引っかけて「スロッピー・ジョーズ」に姿を現わし、知的な美貌を持つ野心家に夢中になった。
マーサは母と弟が帰ってからも1人でキーウエストに残り、アーネストの書斎にさえ出入りするようになった。これを見たポーリンは、自分が前妻ハドレーとちょうど同じような状況になりつつあることを直感したにちがいない。かつてポーリンがアーネストをハドレーから奪い取ったように、今度は若いマーサが奪い取ろうとしていた。
その後、ヘミングウェイは同年7月17日に勃発したスペイン市民戦争に北米新聞連盟を代表する従軍記者として参加する。マーサは記者としてすでにスペインに渡っていた。アーネストとマーサの関係に何か悪い予感を感じていたポーリンは、スペイン行きに反対するが、結局、ヘミングウェイは1937年2月にキーウエストを後にしている。

当然ながら、ヘミングウェイの目的はスペインの人々をジャーナリスティックな立場から守ろうとするものであり、反フランコ将軍という政治的な意思も明確にしていたが、マーサへの思いが強くスペイン行きを決定づけたことはまず間違いない。事実、3月16日にはマドリッドの「ホテル・フロリダ」でマーサと落ち合い、部屋を共にしている。

このスペイン市民戦争を機に、ヘミングウェイの心はポーリンからマーサへと大きく移り変わってしまった。これはポーリンとの12年間に渡る結婚性格の終焉であり、同時に、実り多きキーウエスト時代との決別でもあった。しかし、作家としてのヘミングウェイは、次なる「大作を書き上げるために必要な新しい女性」と巡り合ったのであり、それは1940年に出版される『誰がために鐘は鳴る』として結実することになる。
ヘミングウェイが最後にキーウエストの家を訪れたのは、1939年の12月。ハバナのサンフランシスコ・デ・パウラに新しい家「フィンカ・ビヒア」を見つけた後のことである。ヘミングウェイは数日をキーウエストで過ごし、『誰がために鐘は鳴る』の草稿を執筆した。身の回りの荷物をまとめてハバナへのフェリーに乗り込んだのは、年も押し迫ったクリスマス直後のことだった…。

 
 
 
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