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HOME BIG BLUE 巨魚に魅せられた男達 ゼーン・グレイ( 3 ) 豊穣の航海、黄金の日々
  自身が釣ったタイガーシャークの顎骨に見入るゼーン・グレイ。
自身が釣ったタイガーシャークの顎骨に見入るゼーン・グレイ。

西部劇作家、
アウトドアライター、
そしてビッグゲームのパイオニア

ゼーン・グレイ

豊穣の航海、黄金の日々
Big Fish...I Respect You So Much

文・須賀安紀

 
 
 

自身のライフスタイルを、その人生で見事に演じきってみせた男がいる。
作家として成功すること、そしてビッグゲームに対する情熱を完全に燃焼させること、その二つをダンディズムを片手に、完璧なフォームで成し遂げた男がいる。
DNAの螺旋構造のように、書くことと釣ることの意味が、その生き方にこれほどまでに強く投影した例を私は他に知らない。

初めて1000ポンドオーバーを釣った男

1872年1月31日、アメリカのオハイオ州ゼーンズビルに、その男は生まれた。
その男は釣りのために手に入れた愛艇“フィッシャーマン号”(全長146フィート、全幅38フィートの3本マストのスクーナー)を母船とし、南海に巨魚を求めて度重なる航海をした。ビッグゲーム・フィッシングの黄金期に多くの世界記録を樹立し、タヒチでは、1930年5月、世界で初めてロッド&リールで1000ポンド(454kg)を超えるカジキを仕留め、ビッグゲーム史上、決して破られることのない名誉を手に入れたのである。
この記録を達成した当時のロッドといえば、ヒッコリーとパラコナ・バンブ−仕様のハーディ社製ロッドあたりであろうか。リールはやはりハーディ社か、もしくはアーサー・コバロフスキー製作のものだったろう。ラインはアシャウェイ製36か39スレッド(1スレッドは約3ポンド強度)の亜麻糸である。モノフィラメント・ラインやダクロン・ラインのない時代に、男はこの大記録を樹立したのである。
1910年代に考案されたリールのドラグ機構がビッグゲームの可能性を飛躍的に高めたわけだが、その男自身も数々の釣り具の改良、フィッシング・メソッドの発展に多大な貢献をし、現在のビッグゲーム・ボートのフィッシング装備にも大きな影響を残している
その男の職業は作家で、フロンティア・スピリッツに溢れた64冊の“西部劇小説”を世に出し(流行作家だったのである)、12冊のノンフィクション―その殆どは自身の世界を股にかけた釣行記―を発表し、少年たちのために4冊のアウトドア・ブックを残し、2冊の野球小説を上梓し―その男はペンシルヴァニア大学で歯科医となるために学んだが、大学には野球の奨学金で入学した―釣りやハンティングに関する250以上の記事をアウトドア雑誌に寄稿した。それらの作品は23にも及ぶさまざまな言語に訳され、世界中で多くの読者を獲得した。そして何と、現在までに延べ1億3000万冊以上が売れたとされている。

キーウェスト時代のアーネスト・ヘミングウェイ。
キーウェスト時代のアーネスト・ヘミングウェイ。
 

グレイとヘミングウェイ

その男、ゼーン・グレイの生涯を想うとき、私の脳裏にはいつも、もう一人の巨人、ア−ネスト・ヘミングウェイのことがある。書くことと釣ることのさまざまな通過儀礼の中で、共通点の多い二人の人生を対比させてしまうのである。
自身の作品が初めて活字となった時、グレイは30歳、ヘミングウェイは17歳。作家としての地位を確立した頃、グレイは40歳を過ぎていたのに対し、ヘミングウェイはまだ30歳にも満たない夏の盛りの中にあった。
シカゴ生まれのヘミングウェイとグレイの間には27歳の年の開きがある。しかし後年、共に1920年代から30年代の豊穣の海で、取り憑かれたようにビッグフィッシュを追い求め、その航跡に共にたわわな実りをもたらしたことに、凡人は神の見えざる手を意識せざるをえない。

グレイは1929年から30年にかけて長期のタヒチ遠征を行っている。この時、83日間というもの、まるで釣れない日が続いた。84日目に464ポンド(約210kg)の見事なストライプト・マ−リン(マカジキ)を釣ったものの、その83日間はグレイにとっての不名誉な記録となった。しかし、数ケ月後の1930年5月、あたかもこの不名誉を埋め合わせをするかのように、彼はあの1040ポンドの巨大なブルー・マ−リン(クロカジキ)を仕留めている。しかもこれは、サメの襲来により推定200ポンドほどの上納を捧げた後の重量であった。

 

グレイは翌年、“Tales of Tahitian Waters”を上梓し、タヒチでの夢の日々を語った。そして、この本をヘミングウェイに贈った。
ヘミングウェイの『老人と海』は1952年9月1日のライフ誌上に発表されたものだが、このストーリーの原型は1936年4月のエスクワイア誌に“On The Blue Water”というタイトルで発表されている。そこでは、キューバのカバニャスから一人で小舟に乗って沖に出た老人が途轍もない巨大なマ−リンを掛けたことが語られている。
「ハンドラインで仕留められたそのカジキは老人の小舟を遥か沖合いまで引っ張っていった。二日後、老人はカバニャスの60マイル東で漁師たちに助けられたが、その小舟には巨大なカジキの頭部が結わえつけられてあった。巨大な魚の体で残っている部分は、全身の半分足らずであったが、目方にして800ポンドはあった…」
この物語の骨子は、ヘミングウェイの愛艇ピラー号のキャプテンであったグレゴリオ・フェンテスが1932年頃に彼に話したキューバ周辺海域での漁師と巨魚の逸話にヒントを得たとされている。しかしグレイのタヒチアン・ストーリーをも参考にしているのは間違いない。
ヘミングウェイが遺した作品、エッセー、手紙の中で、彼がゼーン・グレイに触れた例を私は殆ど知らない。しかし、米国のデリデイル社から950部の限定本として出版されたアンソロジー“American Big Game Fishing”(1935年)に収められているヘミングウェイの『キューバ沖のマ−リン』にのみ、私はグレイの名を見つけることができた。しかしそれは、グレイについて語るものではなく、グレイの名を冠したタックルについての味気ない記述でしかなかった。
グレイからタヒチに関する本を贈呈され、グレイの大掛かりな釣行と成果にヘミングウェイは圧倒されたはずであるが、常に自己顕示とエゴイズムの間にある彼にとって、過去の巨人はさほど意味を持たないものであったのだろう。

パイオニアであり続けた生涯

既に書いたように、作家としての成功を収めた時、グレイは既に40歳を過ぎていた。その頃、彼は20代の新婚旅行の際に訪れたことのあるカタリナ島を再訪する。

カタリナ島はロスアンゼルスの南西沖に浮かぶ小島で、1898年創設の有名なカタリナ・ツナ・クラブがある。そこで彼は初めて、ビッグゲームの最初期のフロンティアたちの息遣いに触れたのである。1914年、グレイ42歳の夏であった。
ブルーフィン・ツナ(クロマグロ)、そしてマ−リンやソードフィッシュ(メカジキ)といった、当時のタックルでは釣ることの難しかった大魚に挑むうちに、彼は次第に巨魚を追い求める“求道者”と化していった。そしてついには1920年代当時は誰もが夢想だにしなかった南大平洋への遠征釣行に乗り出す。
50歳を過ぎて彼の破天荒なフィッシング・アドベンチャーは開始され、その後も彼はビッグゲームのパイオニアであり続けた。
フロリダ・キーズ、コスタリカ、カボ・サン・ルーカス(メキシコ)、ガラパゴス、タヒチ、フィジー、ニュージーランド、オーストラリア…。
 
 

ゼーン・グレイが訪れ、フィッシャーマン号が航跡を記したそれらの海は、今でこそ誰もが気楽に出掛けていく釣りのメッカであるが、当時はその大部分が完全に未開拓だった。グレイは自作の西部劇で描いたフロンティア・スピリッツを現実の釣りの世界で大規模に実践したのだった。
今では昔日の面影はないものの、カナダのノヴァ・スコシアでのジャイアント・ブルーフィン・ツナも、グレイの釣行によって広く世界にその名を知られることとなった。またオーストラリアではケアンズの将来性に着目し、こう予言している。
「もしも私がかつてタヒチで釣った1000ポンドを超すマ−リンが他でも釣れるとしたら、それはケアンズがもっとも有望な地である…」と。
グレイはある意味で今日のビッグゲーム・フィッシングの始祖であった。
例えばセイルフィッシュ(バショウカジキ)釣り用に考案した木製の大型ティーザー(疑似の寄せ餌)、また確実に餌を喰わせるためのドロップバック・テクニック。これは当時マイアミの有名なキャプテンであったビル・ハッチが考えたものであるが、グレイはこのテクニックを広く世界に知らしめたのである。それはストリップ・ベイト(カット・ベイト)にしても同様である。カツオやシイラの身を細く切って使うこのトローリング用ベイトは、セイルフィッシュ釣りに大きな成果をもたらした。
さらにメカジキを探し、狙うためにグレイは“ベイティング・タワー”を考案している。水面に浮いているメカジキは、休息しているのか日光浴なのか、エサにあまり興味を示さない。そこで効率良くメカジキを探し、その鼻先にベイトをプレゼンテーションするためのテクニックと装備が必要とされる。そのためのタワーをグレイは考案したのである。
メカジキ釣りは非常に難しい。私も今までに何度かトライしたものの、全て徒労に終わっている。今日においても、メカジキをロッド&リールで仕留めた経験を持つ人は、おそらく世界でも500人に満たないと思われるが、グレイは1920年代に合計24尾のメカジキをランディングしている。ちなみに彼のベストレコードは582ポンド(約260kg)である。

ZGブランドの釣り具類

グレイが絶頂の極みにあった頃には、ゼーン・グレイのブランドでフックやラインなど多くのタックルが発売された。とりわけイギリスのハーディ社はグレイより依頼されたトローリング・リールの開発に力を注ぎ、幾度かの試作を経て1925年には“ゼーン・グレイ”リールを完成させている。先述のメカジキやタヒチの1000ポンドオーバーもこのリールによって達成された。遥か後年の1972年にはイタリアのエバ−ロール社がゼーン・グレイ・ブランドでリールを生産し、1985年にはハーディ社が改めてニュー“ゼーン・グレイ”リールを発表している。

 

グレイの釣行の際の母船となったフィッシャーマン号は、巡航速度の遅いことが欠点であった。そのためグレイは新しくドイツ皇帝カイザー・ウィルヘルム二世のためにクルップ社が作った全長186フィート、全幅28フィートのスクーナーを当時で30万ドル以上の金を払って手に入れた。彼はこの“フィッシャーマン二世”に6隻のフィッシング用ランチを積む予定でいた。そのうちの2隻は34フィートの完璧なフィッシング・マシーンだった。
 しかし忍び寄る戦争の影と大恐慌後の疲弊した経済環境のもとで、フィッシャーマン二世が華々しく海原を駆け巡る機会は既になかった。

 
1939年10月23日、幾度目かのオーストラリア釣行を計画中に彼は67歳の生涯を終えた。突然の死ではあったが、グレイにとっては幸せな死であった。
世界はこの年を境に第二次大戦の嵐に突入し、ヘミングウェイはハバナのホテル・アンボス・ムンドスで『誰がために鐘は鳴る』の執筆を開始した。
 
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