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HOME BIG BLUE 巨魚に魅せられた男達 ゼーン・グレイ( 1 ) オフショア・スポーツ・フィッシングのパイオニア

メカジキ釣りの魅力
●こだわりと衝突

他の多くの熱心なソードフィッシュ釣り師達が陥る欲求不満に、ゼーン・グレイもまた陥っていた。
ある年の1シーズン、彼は合計で93日間も海に出て釣りをしたが、その間に140尾のソードフィッシュを視認し、そのうちの94尾にベイティング(餌を食わすこと)を試みた。その結果、ストライクが11回、フック・アップしたのが7回で、何とかランディングにまでこぎつけたのは僅か4尾にすぎなかった。しかし、当時としてはそれは驚異的な記録で、クラブ・メンバー達の羨望をかったのである。
ゼーン・グレイは創意工夫に富んだ釣り人だった。多くの海外遠征釣行で、彼はさまざまな実験をした。彼は、ソードフィッシュにカイト・フィッシングは不適当であると判断し、代わりに大型のベイトを用いた。その方が魚の注意を惹くのだと、彼は主張した。

  ゼーン・グレイのブランド名で売られた『Ashaway社』のフックとライン。
ゼーン・グレイのブランド名で売られた『Ashaway社』のフックとライン。

彼は、マーリン・フィッシングでは“ティーザー(※15)”が重要な働きをすることも発見した。フロリダ・キーズに木製ティーザーをいちはやく紹介したのも彼である。このティーザーは、その後、フルーガー社によって“ゼーン・グレイ・ティーザー”のブランドで発売された。参考までに書いておくと、同社はビッグ・ゲーム用のフック(鉤)を“ゼーン・グレイ・フック”と銘打って既に販売していた。その他の、彼の名前をつけたタックルを挙げると、ハーディー社(※16)のロッド、リール、フック。コックス社のリール。1930年代には、アシャウェイ・ライン社が自社製のラインに彼の名前をつけ、イタリアのタックル・メーカー、エヴァ・ロール社も“ゼーン・グレイ・リール”と銘打って発売した。

  ゼーン・グレイが考案した木製のティーザー。
ゼーン・グレイが考案した木製のティーザー。
 

ゼーン・グレイは、他の釣りとは一線を劃して、ソードフィッシング(Swordfishing:メカジキ釣り)に打ち込んだ初期の釣り人の一人である。ソードフィッシングに出かける際、彼はロッドは1本だけ、ベイトは数尾(予備は氷の上に置いておいた)だけを用意し、ファイトに不必要なものは全てコックピットから除いておいた。そうしてから、彼は出港した。

メカジキにベイティングするために考案されたクローズ・ネスト。
メカジキにベイティングするために考案されたクローズ・ネスト。

 

彼はまず魚影を捜したが、お目あてのソードフィッシュがかかるまで、あわよくば他の魚を釣るべく、どちらかというと盲滅法にトローリングをした。ゼーン・グレイは一種の呪(まじない)として、次から次へと外道を釣っていると、ソードフィッシュを発見するチャンスが自然に増えていくという感じを抱いていたようである。
彼は自分の船に頑丈なマストを立て、その上半分に台座をつけたのである。この台座(crow's nest)には2つの目的があった。まず、遊泳中のソードフィッシュを発見し、高い場所からベイティングすること。こうすると、本来、水中に長々と引かれていたラインとリーダーが海面上に出て短くなり、より魚の目をごまかすことができる。さらに、台座からラインを出すことにより、船尾の遥か後方にベイトを持っていくことが可能で、魚の警戒心も刺激せずにおくことができると考えたのである。しかし、この方法にも欠点はあった。魚が掛かる度に釣り人はかなりの高さの台座から、フック・アップしたばかりの魚とファイトしつつ、一々降りてこなければならなかったのである。それも、時には荒れる海の上で……。ゼーン・グレイは、台座からソードフィッシュにベイティングした時は、ほぼその全てにストライクがあったと語っている。
彼の、このような工夫と努力は大いに報われた。持ち船である52フィートの『ザ・グラジエーター号』による10年間の釣りで、ゼーン・グレイは合計24尾のソードフィッシュをランディングしたのである。今日においても、ソードフィッシュを1尾でも釣った経験を持つ釣り人は、全世界でも500人に満たないと思われる。『ザ・グラジエーター号』で築いたこの記録は、ゼーン・グレイの技量と粘り強さの記念として燦然と輝いている。

しかし、ゼーン・グレイ自身も認めるように、ソードフィッシュに対する彼の熱中ぶりとその自慢話は、後に取り返しのつかぬ失態を招くことになったのである。或る“事件”で彼は多くの友を失い、名声を失い、さらに個人的生活にまでそれは及んだ。
1920年に、ゼーン・グレイはそのシーズン最大のソードフィッシュを釣った。重さは418ポンド。これはウィリアム・ボッシェンが持っていた当時の世界記録より45ポンド少なかったが、それでも刮目すべき記録には違いなかった。
しかし、ゼーン・グレイはたちまちクラブ・ハウスの厄介者になってしまったのである。なぜなら、彼はこの時の自分のファイトぶりを微に入り細に入り、何度も何度も繰り返し話し、飽くことを知らなかったからである。彼はいつまでも少年っぽい性格を宿した男だった。

  ソードフィッシュ(メカジキ)フラッグを掲げる『Gradiator号』。
ソードフィッシュ(メカジキ)フラッグを掲げる『Gradiator号』。

1920年に釣った418ポンドのメカジキ。
1920年に釣った418ポンドのメカジキ。

 

それゆえにその熱中ぶりも、時にはチャーミングにさえ思えたが、それはいかにも子供じみた自己中心的な態度ともいえた。自分の熱中しているものが、ひょっとすると他人にはそうではないかも知れぬという事実を、彼は決して理解しなかったのである。ゼーン・グレイの際限なく繰り返される自慢話に辟易したクラブのメンバー達は、クラブ・ハウスに入ってくる彼の姿を見ると、こそこそ逃げ出したり、新聞で顔を覆ったりするようになった。
翌1921年の夏、それまで100ポンド以上の魚を釣った経験のないキース・スパルディング夫人が、何と426ポンドのソードフィッシュを釣り上げたのである。夫人はツナ・クラブの会友待遇を受けた当時最高の女性アングラーであった。この記録が生まれた日の夜、ツナ・クラブのメンバー達は全員総出でゼーン・グレイを恭しく迎え、冷やかすような口調で彼に感想を求めた。曰く、夫人はこの日のために、去年の冬、どのくらいボートを漕いで体を鍛えたと思うか?こうなったらあなたも自分の手にソルトウォーターより化粧水をつけた方がいいんじゃないですか……云々。

 

ゼーン・グレイはカッとなり、そこで思わずこう断言してしまった。「このようなでかい魚を、スパルディング夫人一人でランディングできる訳がない。彼女はきっと助けを受けたに違いない!」と。
このような類の怒りのコメントこそ、まさに何人かのメンバーが心待ちしていたものであった。その年のクラブの副会長、レイ・トーマスはゼーン・グレイにこう勧告した。クラブに対して詫び状を書くか、それが嫌ならクラブを脱会すべきである、と。ゼーン・グレイは、その両方とも行なってしまった。

クラブの古老達から不評を買ったとはいえ、ゼーン・グレイの脱会はクラブにとっても、またゼーン・グレイ自身にとっても大いなる損失であった。ビッグ・ゲーム・フィッシングに対するゼーン・グレイの熱意と創意工夫は、それまでツナ・クラブの隆盛と発展に多大の寄与を果たしてきたのは事実であり、彼の抜けた穴を埋められるメンバーは二度と再び現れなかった。ゼーン・グレイにとって、クラブを失ったことは、同時に多くの古い友人と永年に渡って親しんだ古巣をも失う結果になったのである。
ゼーン・グレイは傷つき、怒りに燃えていた。恐らく彼は、自分がツナ・クラブを必要とするより、ツナ・クラブの方がより多く自分を必要としている、ということを釣りの世界に誇示したかったのではないだろうか
1927年、ゼーン・グレイは『Tales of Swordfish and Tuna(メカジキとマグロの物語)』を出版したが、同書の中で彼は、ツナ・クラブのヘヴィー・タックル規格と、クラブがビッグ・ゲーム・フィッシングに使用していた“エアープレーン・ワイアー”や“ケーブル・リーダー”を2章に渡って攻撃している。ケーブル・リーダーはシングル・ストランド・ワイアーよりも魚体に絡み付きやすく、その体を切り裂きやすい、と彼は主張した。本来、ソードフィッシュに用いられたリーダーは軽量チェーンであったが、この種のリーダーはオマツリしやすく、伸張度も少ないためにブレイクもしやすかった。高硬度ワイアーを、当時ドイツで創造されていた銅製カップリングで接続すれば、リーダーに十分なフレキシビリティーを与えられるという方法が開発されたのは、その後のことであった。ゼーン・グレイは各種の実験の結果、ビッグ・ゲームにはブレイデッド・ワイアーが最適であると主張したのである。

  スパルディング夫人と426ポンドのメカジキ。
スパルディング夫人と426ポンドのメカジキ。
 

当時、ツナ・クラブの規格になっていたビッグ・ゲーム用のラインは24スレッド(約72ポンド・テスト)だったが、ゼーン・グレイはこの規格では本当に大きな魚には強度不足だと見なし、全米の他のクラブで用いられていた39スレッド・ラインにすべきだとも考えていた。大型のソードフィッシュは、24スレッド・ラインで釣れないこともないが、ライン・ブレイクの確率が増え、ランディングもできずに魚を死なせてしまうことにつながる。だから、ラインはあくまでも対象魚にふさわしい強度のものを用いるべきである、というのがゼーン・グレイの考えであった。今日でも、この考えに同調するアングラーは多くいる。

※15 ティーザーとは、魚を誘い出すためのフックを付けないベイト(餌)のことである。木製やプラスチック製、また鏡を貼り合わせたアーティフィシャル・ティーザ−と、デッド・ベイト(魚の切身、もしくは一尾がけ)を使用するベイト・ティーザ−がある。
※16 ハーディーの創始者であり、アングラ−としても著名であった初代J.J.Hardyは、1920年頃にゼーン・グレイよりトローリング・リールの製作を依頼された。職人気質の彼は2年間の猶予と、今までグレイが使っていたリールの不満点を全て呈示することを条件に研究を開始し、なんとか原型を作り上げた。双方の熱の入れようは相当なもので、グレイは試作品が出きあがるまで、たびたびハーディーの工場を訪ね、当時執筆中であった原稿は、このために大幅に遅れる有り様であったという。1925年にリールは完成し、翌1926年6月29日、ゼーン・グレイはソードフィッシュの世界記録を達成し、1931年のタヒチ遠征では初めての1000ポンド・オーバーのブルーマーリンを記録した。リールは大物との戦いがすむと必ずハーディーの元に送られ、リールは再点検され、オーバーホールをされた後、再びグレイの元に届けられた。このリールは1933年頃よりゼーン・グレイの名を冠して発売されたが、欧州の戦火の拡大(1939年)と共に、やがて作られなくなった。その間、このリールの愛用者からはハーディー社に再現の声が寄せられ続け、1978年には3代目社長のウイリアムが、再び大物リールを開発することを決定したのである。古いリールをそのまま再現するのでは、既に米国で作られている大型リールに立ち打ちできる訳がなく、旧ゼーン・グレイ・リールを念頭におかないデザインと開発プランの下、フィールドテストを繰り返し、1985年、新ゼーン・グレイ・リールの受注販売を開始した。発売当初の価格は130ポンド・クラスで4000ドル(US$)。全て前金で、運賃、保険などは別途のロンドン渡し価格であり、実際はこれよりかなり高くなった。

1924年8月22日、ノヴァスコシア沖で達成された758ポンドのブルーフィン・ツナ。これは当時の世界記録であった。
1924年8月22日、ノヴァスコシア沖で達成された758ポンドのブルーフィン・ツナ。これは当時の世界記録であった。

 

遠征釣行
記録と失意

1924年、ゼーン・グレイはノヴァスコシアに行き、758ポンドのブルーフィン・ツナを釣った。これは当時の世界記録だった。だが、ゼーン・グレイはこの大記録にも満足せず、ノヴァスコシアの釣りの開拓者の一人であった英国人のミッチェル・ヘンリーに、根拠の無い難癖をつけた。ヘンリーもまた、ゼーン・グレイにひけをとらぬ自惚れ屋であった。この米英の二大釣り名人は、両国の釣り雑誌において、どちらがツナ・フィッシングの王者であるか、互いに激しく攻撃しあったのである。この争いは、1934年にヘンリーが851ポンドの世界記録を打ち立てるまでの長きに渡って続けられたのである。
その一方で、ゼーン・グレイは遥かなる大遠征釣行に夢をかけるようになっていった。
1926年、彼はニュージーランドのベイ・オブ・アイランドで釣りをするようにニュージーランド政府から招待された。結果、彼は同国で初めてソードフィッシュを釣ったアングラーになったほか、数多くの記録を打ち立てた。彼はまた、ティーザーを使用するトローリングと、ビッグ・ゲーム用タックルを同国のアングラーに披露した。当時、英国領内では、リールはロッドの下部につり下げられていたのである。人々はゼーン・グレイの“最新の”タックルを食い入るように見つめた。

ゼーン・グレイは、同国の主要な新聞『オークランド・ヘラルド』の第1面で、米国のタックルの優秀性について述べると同時に、当時、ニュージーランドで用いられていたトレブル・フックとハープーン(ギャフ代わりに使うモリ)を、反スポーツ的かつ残酷であると非難した。せっかく招待したのに悪口まで言われたニュージーランド政府は、2度と彼を招こうとはしなかった。それ以来、ゼーン・グレイは同国へは自費で出かけたのである。
1928年、ゼーン・グレイはタヒチに初めて釣行した。1930年に再訪した折、彼は1040ポンドのブルー・マーリンを釣った。これは、リールとロッドを使って釣り上げられた史上初めての1000ポンド・オーバーのマーリンであった。しかし、運の悪いことに、このビッグ・フィッシュをランディングする際に、鮫に200ポンドほど魚体を食いちぎられるというアクシデントに見舞われたのである。

  1924年簡易ジンバル・シートの上でファイトするイギリスのアングラ−。
1924年簡易ジンバル・シートの上でファイトするイギリスのアングラ−。

1930年5月、ロッド&リールで初めて達成されたグランダー。1040ポンドのパシフィック・ブルー。
1930年5月、ロッド&リールで初めて達成されたグランダー。1040ポンドのパシフィック・ブルー。

 

その年の『アウトドア・ライフ』9月号に、彼はこの大記録達成の詳細を発表した。しかし、その絢爛たる形容詞に飾られた彼の記事には、多くの矛盾があった。ビッグ・ゲーム・フィッシング界のライバル、ミッチェル・ヘンリーは、英国の釣り雑誌『フィッシング・ガゼット』誌上にパロディー調の記事を投稿し、その矛盾点を鋭くついたのである。
この記事は、ある意味で徹底的なダメージをゼーン・グレイに与えた。そうでなくとも、彼は、当時のいわゆるオーソドックスな釣りの世界からは異端児的扱いを受けていたのであるが、この記事が掲載されたのをきっかけとして、さまざまな陰口や中傷が続出し、最終的には大ボラ吹きの釣り師の代名詞とされた感さえあった。
次第に彼は一人で釣りをするようになっていった。そして、1924年以来、ずっと彼の釣行に付き合ってきたスキッパー、ローリー・ミッチェルを月給450ポンドで雇い、自分の専属スキッパーとした。だが、タヒチへの釣行の際、彼との間に口論が起き、唯一人残ったこの釣りの友を解雇してしまったのである。ローリーは、この解雇は無効であると訴訟を起こした。その結果、タヒチに繋留していた、当時で100万ドルもするゼーン・グレイの持ち船『フィッシャーマン二世』が慰謝料として奪われそうになり、ゼーン・グレイはやむなくこの解雇を取り消したのである。しかし、二人は二度と再び釣行を共にすることはなかった。

この『フィッシャーマン2世』は、ドイツのクルップ社がカイザー・ウイルヘルム2世のために建造したといわれる超豪華クルーザーだった。当時、ゼーン・グレイはこの船を使って世界一周冒険釣行を行おうと計画中だったのである。しかし、さらに不運なことに、前年に起きたあの全世界的経済大恐慌の嵐が、彼のところにもやってきたのだ。世界一周どころか、ゼーン・グレイはこの船の維持費さえやりくりしなければならなくなってしまったのである。彼は失意のうちに、米国へ戻った。
1936年、どうにか経済状態を建て直したゼーン・グレイはオーストラリアに遠征した。彼は、かつてニュージーランドとタヒチで釣行を共にしたクルーをシドニーに呼び寄せた。

  タヒチに、その美しい体を休める『Fisherman号』。
タヒチに、その美しい体を休める『Fisherman号』。


1930年5月、ロッド&リールで初めて達成されたグランダー。1040ポンドのパシフィック・ブルー。

 

釣果の方は悪くなかった。840ポンドの“ホワイト・デス・シャーク(ホオジロザメ)”の他、世界記録となった1036ポンドのタイガー・シャークを釣ったのだ。しかし、あの全盛時のような“熱気”はもはや消え失せていた。オーストラリアのファンは彼の釣果を称賛したが、本国のアメリカでは、この時の釣行記『An American Angler in Australia』の出版さえ容易に運ばなかった。どうにかやっと出版されはしたものの、この本にはこれまでのようなゼーン・グレイのファンや書籍コレクターを惹きつける美しさがなかった。イラストも無く、装丁も粗雑だったのだ。このことは、大恐慌後の出版界の経済状態を示していると同時に、当時の編集者たちが、もはやゼーン・グレイは売れっ子のアウトドア・ライターではないと考えていたことも示唆していると言えるだろう。

 

ゼーン・グレイ
黎明期を駆け抜けた男

彼の名声は本国よりも、むしろオーストラリアでの方が高かった。そのこともあったせいか、ゼーン・グレイは1938年に再度オーストラリアに遠征している。その時、彼はケアンズの将来性に着目し、こう予言した。“もしも、私がタヒチで釣った1000ポンドを超すマーリンが他でも釣られるとしたら、それはケアンズ以外には考えられない……”と。
1939年10月23日。ゼーン・グレイはカタリナ湾を見下ろす別荘で死去した。心臓麻痺であった。
彼は、死の直前までケアンズへの再度の釣行計画を練っていた。そして、死の前日まで、彼は別荘のポーチにしつらえたファイティング・チェアーに坐り、ロッドとリールにバネとおもりを装着し、トレーニングに励んでいたのである。いつ世界記録クラスの大物がかかってもいいように、体を鍛えておく、というのが彼のモットーであった。享年67歳であった。
ゼーン・グレイの没後、40年近い歳月が過ぎ去った。この長き年月の間に、彼に対する嫉妬や中傷は忘れ去られた。今、彼の足跡を辿ってみると、ビッグ・ゲーム・フィッシングに対する彼の功績は、途方もないほど大きなものであったことに気付く。

ゼーン・グレイは世界を広く旅し、米国で形作られたこのスポーツのテクニックやタックルを人々に紹介した。彼はまた、大衆的人気を持つ娯楽小説家であった。何百万ものファンは、スリルとサスペンスに富んだ彼の西部劇小説と同じ質の楽しみを、その冒険釣行記から得ようとした。それら愛読者の殆どは、トローリングなど生涯やりそうもない人々だったのである。
彼の著作や記事に込められているビッグ・ゲーム・フィッシングへの情熱は、決してそのみずみずしい輝きを失うことがないだろう。ゼーン・グレイは、ビッグ・ゲーム・フィッシングの黎明期における、もっとも偉大なストーリー・テラーであった。

 
 
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