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HOME BIG BLUE 巨魚に魅せられた男達 ゼーン・グレイ( 1 ) オフショア・スポーツ・フィッシングのパイオニア
 

ZANE GREY
オフショアー・スポーツ・フィッシングのパイオニア

ゼーン・グレイ伝

文/構成・(株)八点鐘

 

1914年8月の或る午後のこと。向こう気の強そうな一人の若者がアバロン(※1)にやってきた。ツナ・クラブ(※2)所属の剥製師、チャールズ・ブラウニング・パーカー(※3)を訪ねた彼は、これから自分が釣るであろう初めての“ブルー・ボタン・ツナ”(※4)をどのように剥製にして欲しいか、こと細かに説明し始めた。パーカーは青年をじろりと見上げ、呆れた表情を浮かべた。そして、こう告げたのである。とにかく出かけて行って、その最初のやつ(ファースト・ワン)を釣ってこい、と。
しかし、この生意気な青年は、とうとうそれをやり遂げてしまったのである――5年後のことではあったが…。スタートこそ遅いペースで始まったものの、ゼーン・グレイと名乗ったこの若者は、彼の時代において最も祝福された幸運な釣り師へと変貌して行くのである
この世には実際、2人のゼーン・グレイがいた。1人は全米に数百万の愛読者を持つ西部劇作家であり、もう1人は前者よりずっと数は少ないものの、それでも応々にして妬み深くなる、釣り師という観客を持つ釣りの開拓者(パイオニア)なのである。

 
 

作家・グレイ
類まれなる釣り師として

その時代の多くの釣り師たちは、ゼーン・グレイの名声と贅沢な余暇に嫉妬していた。ニューヨークからロサンゼルスに至る釣り具店主や、マリーナで働く釣り気狂いたちは、自分たちが見たことも行ったことも無い遥か異郷の海で、度胆を抜くような釣りをするゼーン・グレイを口汚く中傷していたのである。
遠征釣行から帰国した彼は、これらの謂れ無き中傷に応えなければならなかった。世界記録になった魚は<b>釣った</b>のではなく、実は撃った(シュート)のだという中傷に対して、彼はこう答えた。
「そうだ。でもカメラで撮った(シュート)んだよ」と。
彼の釣った巨大魚は、何人かの漁師を雇い、非常に太いラインと鉄のようなロッドを使って釣ったという中傷に対しては、こう答えた。

グレイと413ポンドのメカジキ。
グレイと413ポンドのメカジキ。

 

「確かに雇ったよ。訓練したクジラにでかい獲物を見つけさせたんだ」と。
ゼーン・グレイは、生きたまま伝説上の人物となった。そして多くの伝説上の人物のように、彼もまた悪意に満ちたゴシップをつまらぬ人々によって撒き散らされたのである。
今日でさえ、ゼ−ン・グレイを妬む人々がいる。しかし、今日の妬みは釣った魚のサイズではなく、彼が体験した古き良き時代の釣りと、豊饒であったかつての海に対してのものである。
1910年代のフロリダ・キーズ、'20年代のノバ・スコシア、それにパナマ、'30年代のタヒチやオーストラリア……。彼は、今では想像することすら難しい豊かな魚影に包まれて、思う存分、釣りを愉しんだのだ。彼が記述する、入江に群がるツナの大群のシーンは、19世紀に見られたというバッファローの大群のシーンを想いおこさせる。

ゼ−ン・グレイの体験した海洋世界は、もはや“失われた大自然”の中の一部になってしまっている。彼は、釣りと海洋に関する本を8冊著わし、4本の映画を作って大自然の保護に尽力したのだが……。

ゼーン・グレイの常軌を逸したアウトドア・ライフと自然保護運動は、彼の創造力豊かなペンが生み出した巨額の収入に全てを負っていた。もしも西部劇という素材が無かったならば、彼はきっと辺境小説(フロンティア)という新しいジャンルを見つけていただろう。
※1 アバロンは、カリフォルニア南西部沖のサンタ・カタリナ島にある。カジノのある保養地としても知られた。1898年6月1日に、チャールズ・フレデリック・ホルダーがサンタ・カタリナ島沖で釣った83kg(183ポンド)のブルーフィン・ツナは、ロッドとリールで釣られた最初のツナとして知られている。

  アバロン――オフショア・スポーツフィッシングを語る上で、忘れてはならない地。
アバロン――オフショア・スポーツフィッシングを語る上で、忘れてはならない地。

チャールズ・フレデリック・ホルダー(右)と83kgのブルーフィン・ツナ(クロマグロ)。
チャールズ・フレデリック・ホルダー(右)と83kgのブルーフィン・ツナ(クロマグロ)。

 

※2 正確には『カタリナ・ツナ・クラブ』。チャールズ・フレデリック・ホルダーが記念すべきブルーフィン・ツナを釣った翌日から、彼自身がツナ・クラブの設立を仲間に呼びかけた。そして早くも2週間後の1898年6月15日には設立準備のミーティングが行われ『カタリナ・ツナ・クラブ』が誕生した。サンタ・カタリナ島のアバロンに本部を置き、ビッグ・ゲーム・スポーツ・フィッシングがここから始まった。
※3 チャールズ・ブラウニング・パーカー(1867〜1924)はスミソニアン海洋研究所の代表として初めてカタリナ諸島を訪れた。他の多くの訪問者と同様、彼もこの地の魅力にとりつかれ、定住することになった。
※4 『ボタン』は、記録となる大物を釣り上げたアングラ−にカタリナ・ツナ・クラブが贈ったメダルである。“ブルー・ボタン・ツナ”は、ブルーフィン・ツナの記録魚に贈られたメダルである。

 

洗礼名、パール
●せせらぎから海流の中へ

ゼーン・グレイの洗礼名はパールといい、これは彼の生まれた1872年に流行したヴィクトリア女王の色(パール・グレイ(※5))に因んだ命名だった。
グレイの曾祖父は独立戦争で大きな功績を残し、ウエスト・バージニアに1万エーカー(1エーカーは約4050m2)の土地を所有し、そこに“ゼーンズ・ヴィル”と名付けた町を興した。
そんな裕福な名家に生まれたゼーン・グレイは、幼い頃より魚には人並み外れた関心を抱いていた。6歳の時の想い出を、後に彼はこう記述している。
「私が生まれて初めて魚を見たのは、祖母の馬車に乗せられて小川のほとりを走っている時であった。透明な小川のせせらぎの中から、突然、小さな銀色の<b>もの</b>が踊り上がったのだ。『あれは何なの?』と私が叫ぶと『チャブ(chub:ウグイ)だよ、坊や』と祖母が答えたものだ。その時、私はこの世にこれほど美しい生き物が他にあろうか、と思った……」
グレイの父、ルイス・M・グレイは、牧師から歯科医へと転進した人物で、頑固一徹の、非常に子供に厳しい人物であり、グレイが釣りで時間を浪費することを許さなかった。「大人になって釣りに熱中したのは、そんな子供の時の欲求不満のせいかもしれない……」とグレイは後に述べている。
幼い釣り人には年上の、自分より少しは経験のある釣りの先輩が必ず必要なものだ。グレイの最初の先生は彼の兄であり、叔父であり、知識ある友達であった。
父親から、釣りをして無駄な時間を費やしていると怒られたグレイ少年は、川辺で出会った一人の老人(※6)に自分の悩みを打ち明けた。すると、老人はこう応えたのである。

ゼーン・グレイと450ポンドのマカジキ。
ゼーン・グレイと450ポンドのマカジキ。

 

「人はもっと悪いやり方で時間を浪費しているものだよ。魚の研究には、実際、何か人の心をときめかすものがあるんだ。屋外に出、太陽や雨や、自分の周囲の自然の美しさを知る。これは、誰にとっても素晴らしいことなんだよ……。だから、釣りを一つの勉強にしなければいけない。たとえ、どんな天職を持とうとね。だから、釣りのための時間を創ればいい……」

ゼーン・グレイは、後年、実際に魚を収集し、それらを研究したのである。
彼は、竿とリールによって釣られた魚のうち、最大のものを、これまでにも何尾も釣り上げている。だが今日では、彼が初めて釣った1000ポンド・オーバーのブルー・マーリン(クロカジキ)も、その他の素晴らしい記録――111ポンドのイエローテイル、63ポンドのシイラ、450ポンドのストライプト・マーリン(マカジキ)、758ポンドのブルーフィン.ツナ(クロマグロ)、そして1036ポンドのタイガー・シャーク――も、もはや忘れ去られている。しかし、パシフィック・セイルフィッシュ(太平洋バショウカジキ)の学名を<i>Istiophorus greyi</i>といった時代もあり、これは彼の名を記念して命名されたものである。

 

※5 ゼーン・グレイは、後に彼のラスト・ネームGrayの綴りをGreyに改めている。それは、クリスチャンネームとのコンビネーション“Pearl Gray”が“Prince Consort”の10年忌の公的喪章のカラーでもあったからである。
※6 ゼーン・グレイは1872年1月31日、オハイオ州ゼネスヴィルに生まれた。少年時代よりマスキンガム川で釣りに親しんだ。最初の釣りの先生は、町の人々に“オールド・マディー・マイザー”と呼ばれていた初老の放浪者であった。老人は、釣り以外には何もしなかったことからその名前で呼ばれていたという。彼はグレイの良き師であった。彼がグレイに話してきかせたことが、少年期のグレイに大きな影響を及ぼしたとされている。

Riders of the Purple Sage
●名声と旅立ち

1896年、大学を終えたグレイは、ニューヨークの西21番街117番地に住み、歯科医としての第一歩を踏み出した。ところが、彼は歯科医の職業が早くも嫌いになり、一生の仕事にはしないと決意したのである。そして余暇を利用しては、釣りをしにデラウエアまで足繁く通っていた(※7)。
 彼はまた、その当時に結成された“キャンプ・ファイア−・クラブ・オブ・アメリカ(※8)”に加わっていた。このクラブには、当時の名士達が名を連ねていた。セオドア・ルーズベルト、ギフォード・ピンコット(※9)、ア−ネスト・トンプソンらである。また、『レクリエーション』誌の編集長だったジョ−ジ・シールドがそのクラブにいたことは、グレイにとって非常に幸運なことであった。彼はグレイに、冒険的釣り旅行について記事を書いてみないかと申し出たのである。グレイの文章が活字になったのは、この雑誌の1902年5月号が最初となった。これによって文章を書く面白さを知ったグレイは、何とかして文章で生計を立てられないかと考え始めた(※10)。当時、西部開拓時代にテーマを求めた娯楽雑誌に『ザ・バージニアン』があった。曾祖父の冒険談を幼児期に聞かされていたグレイは、そのうちの数篇をフィクションにして同誌に発表、少しばかり評判となった。それは、将来有望な西部劇作家の誕生でもあった。
 昔話にリアリティーを持たせるべく、彼は現実に数多くの冒険的取材旅行を体験した。開拓時代と同じ装備で大遠征をしたり、筏で激流を下ったりもした。しかし本の売れ行きはパッとせず、“成功”はまだ遥か彼方にあった。幾多の辛苦の末、1908年に『The Last of the Plainsmen』、1909年に『The Last Trail』、1910年には『The Heritage of the Desert』を発表し、ようやくその名を知られるようになった。同時に収入も安定し始めた。ゼーン・グレイは、自身の才能を磨くにつれ、彼独自のスタイルを編み出したのである。つまり、ヒーローとヒロインに叙事詩的なスケールの大きさを持たせたのである。
 ゼーン・グレイの小説は、当時のアメリカが待ち望んでいたフロンティア・スピリッツに溢れた新しいジャンルの娯楽を提供したのである。そして彼の小説は、ゼーン・グレイの30年に及ぶ執筆活動の中で、この愉しみを人々に与え続けたのである。
 1925年当時、数多くの西部劇小説による彼の印税収入は50万ドルにも及んだ。当時の一般人の平均年収は200〜300ドルということを考慮すれば、まさにそれは天文学的ともいえる額であった。同時に、当時の釣り人達のやっかみも、まんざら否定できぬ話である。この豊かな財で、彼は前人未到のフィッシング・トリップに挑み続けたのである。

今も入手できる『Ridersof the Purple Sage』
今も入手できる『Ridersof the Purple Sage』

 

ゼーン・グレイのソルトウォーター・フィッシング歴は、無論、1925年以前に遡る。その年は、彼の歴史的ベストセラー『Riders of the purple sage(※11)』が出版されたのだが、彼はその遥か以前にロングアイランドとジャージーの沖でツナ・フィッシングを、そしてメキシコではターポン・フィッシングを楽しんでいた。この時のメキシコへの釣行は、当時の『フィールド&ストリーム』誌に投稿されている。
『フィールド&ストリーム』とゼーン・グレイの係わりは、彼が作家としてスタートしたごく初期の頃に遡る。ゼ−ン・グレイの第2作目の著作『Camping Out』は、同誌の1903年2月号に掲載されている。同誌がその後“キャンプファイアー・クラブ”の母体になると、ゼーン・グレイは彼の釣行記のほとんどを同誌に発表するようになった。
1918年頃になると、ゼーン・グレイの名はしだいに有名になり、経済的に恵まれ始めるに従って、それまでの友人達と訣別するようになった。つまり、ゼーン・グレイは、それまでの友人達では賄うことのできぬ、より金のかかる付き合いの世界に入ったのである。特に、彼がソルトウォーター・フィッシングに夢中になってからは、それまでのフレッシュウォーター・フィッシングで培った数多くの友人を失った。

 
ゼーン・グレイはこう書いている。「海から吹き寄せる、あの甘く柔らかなそよ風を、連中は分かろうとしないのだ……」と。
アイザック・ウォルトン・リーグ(※12)でゼーン・グレイと同じメンバーだったウイル・ディルグは、1922年にブルーボタン・フィッシュのバス(トロフィー級の大物ブラック・バス)を釣り上げた際の感激を9ページもの詩に書いて彼に贈っている。ゼーン・グレイはこの手紙を読んでうんざりした。なぜなら、彼はバス釣りと殆ど同じタックルで、その10倍ものサイズの魚をソルトウォーターで釣っていたのである。フレッシュウォーター・フィッシングの友人との訣別は、これで決定的なものとなった。以後、彼の関心は、大洋を力強く泳ぐビッグ・フィッシュに注がれることになる。それは同時に、幼い頃からの海へのロマンを大きく花咲かせるものでもあった。

※7 ペンシルバニアの大学の野球奨学生になったグレイは、歯科医の父親の勧めもあり、歯科学校に進んだ。野球ほど勉学が得意でなかった彼は、1896年にかろうじて学校を卒業し、平凡な歯科医となった。しかし、1905年に医院を閉じた彼は、妻と共にペンシルバニアのラカワクセンの別荘に移った。そこはラカワクセン・クリークと、デラウェア川の合流地点でもあった。彼は、そこで釣りに明け暮れた。
※8 キャンプ・ファイヤー・クラブ・オブ・アメリカは、1887年に創立された。釣り、狩猟、山登り、ハイキング等のアウトドア・スポーツ愛好家の団体。当時の名士達も数多く参加し、アメリカにおけるアウトドア・ライフの普及に大きな影響を及ぼした。

  ニュージーランド遠征時、リールにラインを巻くグレイ。
ニュージーランド遠征時、リールにラインを巻くグレイ。
 

※9 セオドアー・ルーズベルト(Theodore Rosevelt:アメリカ合衆国第26代大統領)、ギフォード・ピンコット(Gifford Pinchot:ペンシルバニア州知事1923〜27、1931〜35、エール大教授、著書に『To The South Seas 1930』『Just Fishing Talk 1936』)など、彼らは同時に、『カタリナ・ツナ・クラブ』のメンバーでもあった。
※10 以前からグレイは、仕事の後で小説を書いていた。1902年『A Day on the Delware』が『レクリエーション』誌に、1903年には『Camping out』が『フィールド&ストリーム』に発表された。二作目の西部劇小説である『The Spirit of the Border』は、初めの拒絶にもかかわらず、最終的には出版社に受け入れられたため、彼は著述業への転進を決意したのである。しかし、5年間芽が出なかった。
※11 1912年に出版された『Riders of the Purple Sage』は「西欧小説における最高峰」と絶賛され、実に180万部を売った。1924年までには9回ものベストテン入りを果たし、年間57万5000ドルの収入があった。
※12 アイザック・ウォルトン・リーグは、雑誌『アイザック・ウォルトン・リーグ・マンスリー』を中心として組織された野生生物保護の親睦会であった。ゼーン・グレイは当時、同誌に無償で原稿を書いていたこともある。

Big Game Fishing
●名誉と虚栄の間で

ゼーン・グレイが、よりビッグなゲームを求めて太平洋の彼方にまで釣行するに従い(※13)、その釣果の信用性の問題が切迫してきた。カタリナにおいては、彼は自分の釣った魚やその釣り方に対して、信頼のおける証人を多く持っていた。しかし、タヒチやガラパゴスなどでは、この証人を一体どう確保すればいいのだろうか? 当時、彼が熱中していた写真と映画撮影がその役目の一部を果たした。
彼はアウトドア・ライフに興味を持ちだすと同時に写真を学び始めていた。デラウェアでのフィッシングや川旅の模様を数多く写真に撮り、『フィールド&ストリーム』誌に紹介している。
写真術に続いて、彼は当時盛んになり始めた映画産業にも興味を抱き、フォックスやパラマウント社などに、彼のベストセラーの西部劇小説を次々に映画化させたのである。
彼は、アリゾナ(ここは撮影の仕事に便利だった)のアルタデンナに山小屋を、ツナ・クラブを見下ろせるカタリナの丘陵地帯にも別荘を建てた。これら2つの別荘で、彼は心ゆくまでアウトドア・ライフを愉しんだ。午前中に執筆を済ませ、午後は乗馬にハンティング、カタリナの別荘に居る時は、ツナ、マ−リン(※14)、ブロードビル・ソードフィッシュ(Broadbill Swordfish:メカジキ、以下全てソードフィッシュと記す)を釣り上げている。
マーリンとソードフィッシュは、当初、ブルーフィン・ツナ釣りの外道として釣られていた。当時は、ブルーフィン・ツナこそがビッグ・ゲームの王者だったのである。
1917年にゼーン・グレイは多くのストライプト・マーリン(マカジキ)を釣り、最初のソードフィッシュをも釣り上げている。これらは全て、彼が最初のブルー・ボタン・ツナを釣る前の話である。
しかし、ソードフィッシュのフッキングの難しさや、全ての類のビルフィッシュ(カジキ類の総称)が見せる強烈なファイトが尊重されだすに従い、ツナ・クラブのメンバーにとって、それらの魚の地位が高まってきたのである。1909年には、ヘビー・タックルでのマーリン捕獲者を称えるために、ブルーと金色をあしらった楕円形のバッジが、1913年にはソードフィッシュ捕獲者のために金色と白のバッジが作られた。しかし、1920年までにこれらのボタンを得た釣り人は、わずか8人しかいなかった。そのなかには、勿論、ゼーン・グレイの名も入っている。

その20年後、狩猟と大物釣りを何よりも愛したアーネスト・ヘミングウェイが、当時のアメリカ文壇に彗星のようなデビューを果たしていた。ゼーン・グレイは費用は自分が出すからといって、2人だけで“世界釣り競争”をやらないかとヘミングウェイに申し出た。だが、その当時には、さすがのゼーン・グレイの名声も消えつつあった。ヘミングウェイは、消えつつある星に自身の将来を結びつけることには何の価値も見い出せず、この話は立ち消えとなった。
このエピソードからも分かるように、第2次世界大戦前のビッグゲーム・フィッシング界には、良く言えば大いなるロマンチシズム、一歩間違えば無意味な虚栄の張り合いが渦巻いていたのである。同好のクラブやそのメンバーも限られた数しか存在せず、先達の意見が必要以上に尊ばれ、革新的な釣法を追求するよりも、いかに大きな魚を釣り、その名誉を競い合うことばかりに熱中していたのである。ゼーン・グレイは、しかし、このような状況を心よく思っていなかった……。

※13 ゼーン・グレイは、190フィートのスクーナー――フィッシャーマン号と命名――を買い、また、釣り船を他に3隻も持っていた。『フィッシャーマン号』をベースに、ガラパゴス、サン・ルーカス、ニュージーランド、タヒチと回った。1930年に更に大きい『フィッシャーマンII世』を購入、タヒチに向かった。オーストラリアへは2回釣行している。最初は63歳の時。2度目は66歳であった。
※14 マーリン(Marlin)と呼ばれるのはブルー・マーリン(Blue marlin:クロカジキ)、ブラック・マ−リン(Black Marlin:シロカジキ)、ストライプト・マ−リン(Striped Marlin:マカジキ)など、マカジキ科に属する大型の種類を指す。カジキの総称はビルフィッシュ(Billfishes)であり、メカジキ科とマカジキ科の2つの科に属する魚類に対して用いられる一般的な名称である。メカジキはブロードビル(Broadbill)もしくはブロードビル・ソードフィッシュ(Broadbill Swordfish)、バショウカジキはセイルフィッシュ(Sailfish)、フウライカジキはスピアフィッシュ(Spearfish)と呼ばれ、マ−リンとは呼ばれない。

 
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巨魚に魅せられた男達
   
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ゼーン・グレイ( 1 ) オフショア・スポーツ・フィッシングのパイオニア
ゼーン・グレイ( 2 ) 子供たちが父に贈った一冊の本
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