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HOME BIG BLUE 巨魚に魅せられた男達 ミスター・ビルフィッシュトーナメント
 

1986年8月8日、第28回ハワイアン・インターナショナル・ビルフィッシュ・トーナメントにおいて、24kg(50Lb)テスト・ラインで記録されたジル・クレイマー(中央)の481.94kg(1,062Lb8oz)のパシフィック・ブルーマーリンは、IGFAのライン別世界記録を達成した。この記録はHIBT史上、唯一のグランダー(オーバー1,000Lb)である。クレイマー氏を祝福するのは、トーナメントの立役者ピーター・フィジアン(左)と、当時の名キャプテンのフレディ・ライス。

MR.BILLFISH TOURNAMENT Peter S. Fithian
ミスター・ビルフィッシュ・トーナメント

その男、ピーター・フィジアン

構成/編集部
 
 
ビルフィッシャーを自称するアングラーでHIBT(ハワイアン・インターナショナル・ビルフィッシュ・トーナメント)を知らぬ者はいないだろう。ハワイ島のコナ沖で毎年夏に催されるHIBTの歴史は古く、1959年に行なわれた第1回大会から数えて今年(2000年)で実に41回目を迎える(1999年度は中止)。ビルフィッシュ・トーナメントとしてはかつて世界最大規模、かつ最古のものであり、由緒正しき伝統を持ついわば老舗と言える。コナの海をマーリン・キャピタルとして世界中に知らしめたのも、何を隠そうHIBTがあったからこそなのである。  
そのHIBTの立て役者ともいうべき人物がピーター・フィジアン(Peter Fithian)その人である。現在ではIGFAの名誉理事として名を連ねており、ビルフィッシングの普及に貢献した彼の功績は誰もが認めるところである。彼の尽力なくしてHIBTはありえなかったし、また世界各地で150を数える現在のビルフィッシュ・トーナメントの興隆も彼の第一歩なくしてはありえなかったであろう。そこが彼が「ミスター・ビルフィッシュ・トーナメント」と呼ばれる所以である。  しかし、ピーター・フィジアンとハワイとの関係は決してHIBTだけでのみ語られるべきものではない。なぜなら、彼はトーナメントの運営だけで身を立てた人物ではないし、彼の実業家としての手腕はハワイという世界中で最もロマンティックなロケーションとの出会いでこそ何よりも発揮されたからである。そう、フィジアンはハワイ生まれではないのだ。生まれも育ちもボストンであり、ホテル経営科で知られるあのコーネル大学を卒業している。
「私のことをHIBAの代表としてのみ知っている人の中には、私の本職を聞いてくる方もいるが、ほとんどの人々は、私がHIBTの運営に自腹を切っているという事実を知らずに、この運営でたいそう稼いでいるとさえ思っている」と笑うフィジアンだが、彼の本職はあくまでもホテル経営であり、今でこそ有名なあのレイ・グリーティング(空港などで花の首飾りを掛けてもらう例のアレ)を最初にビジネスに取り入れたのも彼なのである。おそらく、ハワイの島々にこれほどまでに魅せられた人物はピーター・フィジアンをおいて他にはいないであろう。
 
 

カイルア湾の上空からコナを見る。写真の中央、やや下に位置するレンガ色の長い屋根が、かつてフィジアンがマネージメントをした「コナ・イン」のあった所である。現在はショッピング・センターとなっている。
 

The man, when young――若き日のフィジアン

コーネル大学を卒業したフィジアンが初めてハワイに魅せられたのは、海軍兵学校時代の1948年の夏のことだった。
「本土に帰るのに結局8年もかかってしまったが、その間ずっとこの愛するハワイにいつか必ず戻ってくると心に決めていた」とフィジアンは当時の心境を語った。
海軍生活の後の1年ほどをマスターズ・トーナメントの舞台として有名な「オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ」で働き、経営の実践を積んだ。1955年になると、カイルア湾のほとりのカイルア・コナといういささか活気に欠ける漁村で「コナ・イン」というホテルを1年経営した。これがフィジアンとコナとの関係の始まりであった。
その後、当時から活気のあったワイキキへ場所を移したフィジアンは、ヘンリー・カイザー所有の当時急成長していた「ハワイアン・ヴィレッジ」で重役候補として訓練を受けた。また当時は、昔ながらの「ロイヤル・ハワイアン」や「モアナ・ホテル」に対抗しようと彼らはツアー業に力を入れてもいた。
宿泊客が飛行機や船から降りると同時にハワイの風習であるレイとキスで出迎えたいと常々考えていたヘンリー・カイザーは、この企画をアシスタント・マネージャーであるピーター・フィジアンに任せたのである。

Lei Greeting――レイ・グリーティング・ビジネス
ハワイの人々にとって、島への訪問は昔から特別なこととして考えられていた。ハワイのグリーティング(挨拶)の風習はキャプテン・クックが初めてハワイを訪れた時に、カヌーの船隊がクックに対して行なったものが起源と言われている。この時からこのハワイ独特の挨拶が始まったのである。
このように、レイを携えて友人や親類を出迎えるのはハワイの古い習慣であるが、フィジアンが本格的にビジネスとして始める1957年以前には、小さなホテルがたった1軒だけ行なっているにすぎなかった。
社交家であるピーター・フィジアンは心底この習慣を気に入っていたし、またビジネスとして使えるという先見の明もあった。彼は当時の状況を次のように語っている。
「趣味と実益を兼ね備えた仕事を見つけたといった感じだった。当時のハワイアン・ヴィレッジのマネージャーはレイ・グリーティングを商売として始めることに賛成してくれ、実際に客の出迎えを任された。もし失敗してもホテルでの仕事を続ければよかったのだが、幸運にも評判はよく、客の出迎えは実に順調だった」
つまり、レイ・グリーティングに関して、客1人当たりの金額を決めてホテル側はフィジアンに支払ったのである。こんなわけで、きわめて希であるが実に息の長い、お金になる会社「グリーターズ・オブ・ハワイ(GREETERS of HAWAII)」を彼は始めたのだった。
 
HIBTのオープニング・セレモニーで可愛いレイ・グリーター。
 

フィジアンは魅力的な女子大生をアルバイトに数人雇い、翌日宿泊する客の到着リストをチェックして、夜間飛行機でやってくる客を出迎えたのである。午前と午後の便との間には時間があるので、いったん彼女たちを大学に戻してから新しい花などを買ったりして午後の便に備えた。当時の旅客機はDC-6であったために65人程度の客しか乗っておらず、現在のように大声を出さなくても出迎えには苦労しなかった。
「ハワイアン・ヴィレッジ」のヘンリー・カイザーはこの新しいビジネスに全面的な融資をした。フィジアンもまた多方面に発展していく会社になることを確信してもいた。当時の状況はパッケージツアーが増加する傾向にあり、大勢の客が一度にやってくるとなれば、ホテル側も空港での応対に対処しきれなくなるのは必至であった。そう考えて、彼はレイ・グリーティングのサービスを観光会社に売り込んだのである。

Billfish Tournament――巨大なアウとの出逢い
フィジアンがビルフィッシュという魚に目を向けたのも、ちょうどその頃であった。ホノルルのワイキキに集中する観光客の流れを、少しでもコナに導くための方策を考えていたのである。
1958年7月のある日のことだった。彼は現地の漁師が「アウ(Au)」と呼ぶ巨大な魚が陸揚げされるのを目撃した。それがマーリンだった。HIBTのアイデアは、この時に生まれたのである。フィジアンのその後の行動力には目を見張るものがあった。まず、ハワイ島の近海における回遊魚の調査を皮切りに、スポーツフィッシングとしてのビルフィッシングが及ぼす集客効果について綿密な計算を始めたのである。
そして、翌1959年には、早くもビルフィッシュ・トーナメントの構想をまとめ、半年後にはハワイ観光局などの協力の下、第1回HIBTを開催するに至ったのである。

ただし、第1回のトーナメントは、地元ハワイのロコ・チームがほとんどで、海外からのエントリーはわずか2チームといったものであった。釣果のほうも、データ不足と技術の未熟さから、はかばかしいものではなかったことも事実である。
しかし、回を重ねるごとにトーナメントは成長し、「マーリン・キャピタル」としてのコナの名は世界中に響き渡るものとなった。その間、さまざまなビッグゲームの釣技が確立され、「コナ」の名を冠したある種のルアータイプは、世界のビルフィッシャーたちのタックルボックスには必ず見ることができるほどになった。また、同時にボートの装備や、スキッパーの技量も大会の成長ぶりと足並みを合わせるかのように向上した。
 
HIBTの長い歴史の中には、さまざまなスターが登場する。写真は215ポンドのアヒ(キハダ)を釣った映画俳優のリー・マービン
 
「1人でも多くのアングラーにビッグゲームの感動を体験させる」という彼の情熱は、現在では確かな手応えを持つに至っている。
その情熱をさらに徹底させるために、HIBTでは、不幸にしてハリに掛かった幼いビルフィッシュをいかに効果的にリリースするかというテーマにも取り組み、この動きは現在では周知のとおり「タグ&リリース・トーナメント」として世界の主要なトーナメントの主流になっている。
フィジアンはその後ハワイ観光局に数年間務め、1970年から1972年の間はその責任者でもあった。また、ハワイ大学観光経営諮問委員会の創立委員を務めるなど、世界的にも有名なフィッシング・トーナメントの創設者としての名声とともに、ハワイ観光業界のリーダーとして知られていった。そして、現在でもハワイに訪問する人々へのレイ・グリーティングに強い愛着を抱き続けているのである。「しかしながら、私が本当にハワイのツアー観光業に貢献したとするならば、それはパッケージツアーにはじめからレイ・グリーティングを含めさせたことにあるだろう」と彼は回顧する。
「グリーターズ・オブ・ハワイ」では旅客機1機につき15名で応対しており、ワイキキにある大手ホテルのほとんどが客の出迎えを彼らに委託している。現在、「グリーターズ・オブ・ハワイ」の他にもいくつかの業者が存在しており、全体ではおよそ300人から400人の人々が空港でレイ・グリーティングの仕事に従事しているのである。もしも「グリーターズ・オブ・ハワイ」がこの溢れるほどのニーズに応えられなかったならば、その伝統的な習慣はやがて廃れて、現地の人々が個人的に親戚や友人に対してのみ行なうものとなっていたことだろう。

HIBTの立役者、ピーター・フィジアン、その人。
  「グリーターズ・オブ・ハワイ」を興し成功したフィジアンにとって、HIBTに手を出すことにはかなりの勇気が必要であっただろうと言われている。しかし、コナの海に対する特別の思い入れが彼を実行に踏み切らせたのだろうか。フィジアンは再び実業家的才能を発揮したのである。
「コナ・インを経営した1年半の間に、私はすっかりコナに魅せられてしまっていた。子供の頃からよく父親といっしょに大西洋へ釣りに出かけていたこともあって、コナではじめて14ftのマーリンが壁に吊してあるのを見てひどく感激したものだ。だから、オアフへ移った後も、何とかしてコナの海と関わりたいと思っていた。当時は独身で時間にも余裕があったので、コナをインターナショナルな釣り場として発展させようと決心したんだよ」
「HIBTの運営方法はマスターズ・ゴルフ・トーナメントに近い。すべてが招待選手であり、その運営に関与する人々は皆ボランティアだ。だから、大会資金の蓄えもないし、ましてや利益を得るなどというわけにもいかない」と言う(2000年現在、このスタイルはかなり変質してしまっているが……)。
 
毎年、20カ国以上の国からトップレベルのビルフィッシャーたちが一同に集まって釣りを競いあうのだ。ピーター・フィジアンという男は、なんて素晴らしいことを考えたのだろう。「今でこそ150を超えるビルフィッシュ・トーナメントがあるが、当時は我々の始めたHIBTだけしか存在しなかった。現在でも、ビルフィッシュ・トーナメントといえば、このHIBTを指すのさ」
その昔、ピーター・フィジアンがハワイの魅力にすっかり夢中になってしまってからというもの、彼の人生はまさにレイ&キスに満ち満ちたものとなったようだ……。
(しかし、この輝かしいHIBTの歩みが、1999年には中止、そして2000年大会においては僅か25チームの参加を数えるのみとなってしまったことは如何なる理由によるものだろう。当ウェブでは今後ともHIBTを見守って行くことで、その結論を導きたいと考えている。)
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