BIG GAME POLICY 釣りに対する姿勢 会社案内
 
   
 
BIG BLUE CHASE KAZIKI
 
 
HOME BIG BLUE 巨魚に魅せられた男達 Capt. バート・ミラー物語( 1 )

Capt. バート・ミラー物語( 1 )

数々の記録を樹立した
マーリンキラーの波乱の半生

岩城寛治

ハワイ島西岸の閑静なリゾート地、コナはビッグゲームフィッシングのメッカ、別名“マーリンキャピタル”とも呼ばれている。
世界のビルフィッシャー達の憧れのターゲット、ブルーマーリン(クロカジキ)の幾多の世界記録を樹立しているコナ沖、ここはいままで数限りない海のドラマが展開されたフィールド、そして明日もまた新しいドラマを用意しているステージだ。演じるのは世界各地からやってくるビルフィッシャー達とコナのチャーターボート。
1987年当時、コナには80余隻のチャーターボートがあったが、そのなかで勇名を馳せるボートの一つに「ブラックバート(BLACK BART)」があった。キャプテンはバート・ミラー(Bart Miller)、いつもグローバルな話題を巻き起す記録男として知られていた。
30歳にしてすい星のごとく現れたキャプテン、バート・ミラーは、天与の釣りの才能に加えて、ある日本人との出会いが彼の人生を変えた――。
ともあれここでは、かつてのハワイのビッグゲーム界の風雲児、バート・ミラーの波乱の半生を紹介してみよう。

 


ハワイ島、カイルア・コナを空から見る


ハワイ島のホノコハウ・ハーバー(スモール・ハーバー)

 

釣り少年はゴルファーになった

1935年4月14日、サンフランシスコに生まれたバートは、早くも4歳の頃から竹のノベ竿をかついで近くのチーコ川にマス釣りによく行ったという。
しかし、幼い頃からバートの夢はプロゴルファーになることだった。9歳の頃からゴルフの練習に専念したというから、おそらく勉強などするひまはなかっただろう。それはいい。しかし9歳にしてすでに自分の目標を決めて実践していたというのは、いくらパイオニアのお国柄でも人並ではない。
それでも12歳の頃は小さな手漕ぎボートを借りて手前船頭で釣り三昧。
「よくグループ同志で釣り競争をしたが、いつも私が一番なので、そのうち誰も私と競争をしなくなってしまったよ」
1954年、釣り名人のガキ大将は19歳でプロゴルファーとしてスタート。カリフォルニアのフォックスヒルカントリークラブに所属して、トーナメントにも出場するようになった。

ゴルフか釣りかそれが問題だ

1935年4月14日、サンフランシスコに生まれたバートは、早くも4歳の頃から竹のノベ竿をかついで近くのチーコ川にマス釣りによく行ったという。
しかし、幼い頃からバートの夢はプロゴルファーになることだった。9歳の頃からゴルフの練習に専念したというから、おそらく勉強などするひまはなかっただろう。それはいい。しかし9歳にしてすでに自分の目標を決めて実践していたというのは、いくらパイオニアのお国柄でも人並ではない。
それでも12歳の頃は小さな手漕ぎボートを借りて手前船頭で釣り三昧。
「よくグループ同志で釣り競争をしたが、いつも私が一番なので、そのうち誰も私と競争をしなくなってしまったよ」
1954年、釣り名人のガキ大将は19歳でプロゴルファーとしてスタート。カリフォルニアのフォックスヒルカントリークラブに所属して、トーナメントにも出場するようになった。

チャレンジしなければ記録は破れない!

1965年、彼は努力と働きぶりが認められ、あるボートのオーナーからキャプテンとして招かれた。ボート名は「アデランテ(ADE LANTE)」。
やとわれでも2年足らずで憧れのキャプテンになったバートは連日、懸命にマーリンを追って、ついにハワイの海をわがものにした――この年、「アデランテ」は85尾のブルーマーリンを釣ってハワイの伝説的な名キャプテン、ヘンリー・チーの70尾の記録を打破したのだ。
もちろんボート仲間やフィッシングジャーナリズムの話題を一手にさらったことはいうまでもない。
「しかしそのときは、まだ私の実力を誰も認めようとしなかった。多分新人キャプテンの偶然の幸運ということにして、ヘンリー・チーの記録はあくまでも伝説として保っていたかったのだろうと思う」
そして翌1966年、バートは再度記録にチャレンジした。
まず自分の実力を完全に実証するためにボートを乗り換えた。新しいボートの名は「キホロ(KIHOLO)」。ロイヤル・ハワイアン・エアラインズがオーナーだった。
「釣りは自分の賭けを試すことだよ。同時に2つ以上の釣り方をすることはできない。私はそのときの潮の条件に応じて、ルアーかライブベイト(生きた魚の餌)、またはデッドベイト(死んだ魚の餌)など最適の釣り方を慎重に選んだよ。」
キャプテン・バートの「キホロ」は、ついにこの年になんと100尾のブルーマーリンを釣ったのである。
「そのときは、さすがに私の実績を評価しない人は誰もいなかった。なにごともチャレンジしなければ記録は破れないよ。」
バートの赤錆びた顔に初めて白い歯がこぼれた。

 


1960年代、コナの偉大なボート・キャプテンにしてマーリン・フィッシングのパイオニア、ヘンリー・チー(写真右)。彼の息子ブッチ・チー(写真左)も父同様コナの海で活躍した。

 


バート・ミラーのルアー。
 
バート・ミラーはライブ・ベイティングにもさまざまな工夫を凝らしていた。
 

バートの生きざまにサムライ修業を見た!

キャプテン・バートの名は一躍有名になり、ボート仲間は彼の実力を文句なしに認めてくれたが、彼の心は満たされなかった。それはキャプテンといっても、しょせん雇われの身だったからである。
彼は1年ほどジレンマに悩んだ末に、ついに自分でボートを造ることを決心した。彼は再びホノルルに帰り、ビッグゲームフィッシングにもっとも適したボートを自分でデザインし、設計し、建造に専念した――どこか剣豪小説の主人公の生きざまに似ているようだ。
そのときバートはひょんなことから、ニュージーランドの著名なアングラーで、ニュージーランドRCAの社長だったジョージ・ウォーラーと会った。ジョージは彼が建造中のボートを見て非常に気に入り、バートをボートと一緒にニュージーランドへ招いた。
ニュージーランドといえば古くからアングラーの腕と度胸のよさで知られたところだ。バートは各地で多くのアングラーに会った。
とくにオテヘイ湾(Otehei Bay)では当時60歳を過ぎていたフランシス・アドレイジー(Frances Adleige)からも釣りの手ほどきを受けた。フランシス・アドレイジーはかつて1920年代に最初にロッドとリールを使ってニュージーランドのゲームフィッシングの揺籃時代を築いた故ゼーン・グレイ(Zane Gray)のキャプテンを勤めたこともあるベテランである。

武者修業で釣技を磨

1967年、バートは自分のボートが売れたのを幸いにオーストラリアに渡った。
「ビッグゲームで有名なグレイトバリアリーフ(Great Barrier Reef)で10月から12月までチャーターボートのデッキハンドをして働きながら釣りの勉強をしたよ。その3カ月間で147尾のブラックマーリン(シロカジキ)を釣り、そのうち7尾が1,000ポンドをオーバーする大物だった」
釣技を磨くには武者修業がいちばん。その後バートはフィジーなどを回って1968年に再びコナに舞戻った。
“帰ってきた一匹狼”は心機一転、再びチャーターボートのやとわれキャプテンになった。ボートは38フィートバートラム「クリステル(CHRISTEL)」。
噂はたちまちに広がり、「クリステル」はバートの腕にほれこんだアングラーからの予約の電話が絶えなかった。
そして1972年、「クリステル」は年間111尾のブルーマーリンを釣って、またも記録を大きく更新した。
人気が高まるほどにオーナーボートへの思いが募るのは当然だ――やがてバートはある日本人との出会いによって、彼の人生を大きく変えることになった。

 
 
 
 
巨魚に魅せられた男達
   
チャールズ・フレデリック・ホルダー 時代を創ったアングラー
ゼーン・グレイ( 1 ) オフショア・スポーツ・フィッシングのパイオニア
ゼーン・グレイ( 2 ) 子供たちが父に贈った一冊の本
ゼーン・グレイ( 3 ) 豊穣の航海、黄金の日々
アーネスト・ヘミングウェイ( 1 ) 海釣り (Salt Water Fishing) への序
アーネスト・ヘミングウェイ( 2 )  PILAR, THE FISHERMAN
アーネスト・ヘミングウェイ( 3 ) キーウエストのヘミングウェイ
マイケル・ラーナー( 1 )  IGFA の立役者
マイケル・ラーナー( 2 )  IGFA 会長ラーナー氏来日
明るく、やさしく、上山草人
ビルフィッシャー高橋一郎の全記録
番外編・トップアングラーズ 10 傑
Capt. バート・ミラー物語( 1 )( 2 )( 3 )( 4 )( 5 )( 6 )
BLACK BART ―そのマネージメントとハイテクニック( 1 )( 2 )( 3 )( 4 )
ミスター・ビルフィッシュトーナメント
 
 
 
 
 
 
Copyright (C) 2006 HATTEN-SYO All Rights Reserved.