バートの生きざまにサムライ修業を見た!
キャプテン・バートの名は一躍有名になり、ボート仲間は彼の実力を文句なしに認めてくれたが、彼の心は満たされなかった。それはキャプテンといっても、しょせん雇われの身だったからである。
彼は1年ほどジレンマに悩んだ末に、ついに自分でボートを造ることを決心した。彼は再びホノルルに帰り、ビッグゲームフィッシングにもっとも適したボートを自分でデザインし、設計し、建造に専念した――どこか剣豪小説の主人公の生きざまに似ているようだ。
そのときバートはひょんなことから、ニュージーランドの著名なアングラーで、ニュージーランドRCAの社長だったジョージ・ウォーラーと会った。ジョージは彼が建造中のボートを見て非常に気に入り、バートをボートと一緒にニュージーランドへ招いた。
ニュージーランドといえば古くからアングラーの腕と度胸のよさで知られたところだ。バートは各地で多くのアングラーに会った。
とくにオテヘイ湾(Otehei Bay)では当時60歳を過ぎていたフランシス・アドレイジー(Frances Adleige)からも釣りの手ほどきを受けた。フランシス・アドレイジーはかつて1920年代に最初にロッドとリールを使ってニュージーランドのゲームフィッシングの揺籃時代を築いた故ゼーン・グレイ(Zane Gray)のキャプテンを勤めたこともあるベテランである。
武者修業で釣技を磨
1967年、バートは自分のボートが売れたのを幸いにオーストラリアに渡った。
「ビッグゲームで有名なグレイトバリアリーフ(Great Barrier Reef)で10月から12月までチャーターボートのデッキハンドをして働きながら釣りの勉強をしたよ。その3カ月間で147尾のブラックマーリン(シロカジキ)を釣り、そのうち7尾が1,000ポンドをオーバーする大物だった」
釣技を磨くには武者修業がいちばん。その後バートはフィジーなどを回って1968年に再びコナに舞戻った。
“帰ってきた一匹狼”は心機一転、再びチャーターボートのやとわれキャプテンになった。ボートは38フィートバートラム「クリステル(CHRISTEL)」。
噂はたちまちに広がり、「クリステル」はバートの腕にほれこんだアングラーからの予約の電話が絶えなかった。
そして1972年、「クリステル」は年間111尾のブルーマーリンを釣って、またも記録を大きく更新した。
人気が高まるほどにオーナーボートへの思いが募るのは当然だ――やがてバートはある日本人との出会いによって、彼の人生を大きく変えることになった。 |