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HOME BIG BLUE 巨魚に魅せられた男達 チャールズ・フレデリック・ホルダー 時代を創ったアングラー
  ホルダー(左)とガイドのジム・ガードナー。そして記念すべき183ポンドのブルーフィン・ツナ。1898年6月1日。
ホルダー(左)とガイドのジム・ガードナー。そして記念すべき183ポンドのブルーフィン・ツナ。1898年6月1日。

Saltwater Game Fishing
時代を創った男達

チャールズ・フレデリック・ホルダー

Charles Frederick Holder

文・構成/(株)八点鐘 編集部

 
 
 

最初の男達
●ツナ・クラブの誕生

錚々たる人脈と伝統を持つターポン・フィッシングと同様、海のビッグゲーム・アングリングにも、公式に認められた記念すべき日もあれば、いつまでも語り伝えたい人物もいる。
1898年6月1日、カリフォルニア州パサデナ在住のチャールズ・フレデリック・ホルダー(1852〜1915)がカタリナ島沖で83kg(183ポンド)のブルーフィン・ツナをロッド&リールで釣った。
ホルダーがロッド&リールでツナを仕留めた釣り史上最初の男だという訳ではないが、このことは、W・H・ウッドがロッド&リールで、実際、最初にターポンを釣り上げた訳ではないのに“最初の男”とされているのと同様である。現実はどうであったかは、ここでは取るに足らない問題であり、大事なことは、とにかくこの二人がターポン・フィッシングとビッグゲーム・アングリングという二つの分野に世間の注目を集めたことである。

C・F・ホルダー(右から2人目)と紳士達。ここに、『ツナ・クラブ』が誕生した。1898年6月。photo:IGFA
C・F・ホルダー(右から2人目)と紳士達。ここに、『ツナ・クラブ』が誕生した。1898年6月。photo:IGFA
  いつの世でも、事あるごとに非難や中傷はつきものであるが、この一件に関しての様々な中傷は、例えば、“コロンブスよりも遥か以前に新大陸に行っていたかもしれない”フェニキア人や中国人、それにバイキング・セーラー達を例に出すような議論とさして変わりはない。歴史に関する限り、事実というものは、実際、記念日が定められたり制度化されない限り、意味を持ってこないという側面がある。
 
C・F・ホルダーが釣った、その“最初のツナ”に関しては、調べれば調べるほどに興味の尽きない逸話があるが、当時の関係者の間では、ホルダー以外の人物をヒーローとしては断固として認めなかったという事実もその一つである。しかし、面白いことには、ホルダー自身が、自分はロッド&リールで最初のツナを釣ったアングラーではないと認めていることである。
『The Log of a Sea Angler』(1906年出版)の中で「私が最初にツナを釣った訳ではなく、最初の大型ツナを釣り上げたのだ」と述べ、他の文章中でも、彼は更に詳しくこの点について語っている。誰がファースト・ツナのパイオニアであるかという点に関しては、釣史家の間でも定かな解答は出ていない。というのも、文献によって、そのパイオニアたる人物の名前が異なって記述されているからである。『In an Isle of Summer』(1913年出版)の中でホルダーが語るところによれば、「ロッド&リールでブルーフィン・ツナを釣り上げようとする試みは、1890年代の半ばに遡る。そして、次第に人々の間にビッグゲーム・アングリング熱が高まり、1896年、C・P・モアハウス(大佐)が最初のツナを釣り上げた」。

また、『The Game Fishes of the World』(1913年出版)の中で、ホルダーは「ツナは、確かに私が183ポンドのものを釣り上げる以前にも捕えられていて、W・グリアー・キャンベルの名が知られているが、ただし彼のはあまり大きくなかった」と述べている。
このように、文献によりまちまちなことが述べられていては困惑するばかりだが、ここに最も中立な立場で書き記してくれたであろうホレース・アネスレイ・バッケルの一文を紹介してみよう。カタリナ・ツナ・クラブの発足当時のオフィサーの一人であった彼は、ホルダーやモアハウス、それにキャンベルとも懇意であった。彼は『Pall Mall』誌の1898年11月号に、『Tuna Fishing in the Pacific』というタイトルの記事を載せ、その中で「1896年にパサデナのモアハウスによってロッド&リール、それにターポン・ラインを駆使して釣り上げられたファースト・ツナは上がった時には既に死んでいた」と報告している。

1898年6月2日の『Pasadena Daily News』ではホルダー自身によって提供されたインフォメーションに基づいて、ホルダーの釣りに関する記事が掲載された。それは「3時間45分という長時間に渡ってねばり強く大物のブルーフィンとファイトを続けた」「教授はアングリング界における過去のあらゆる収穫をしのいだ」等のホルダーを称える記事で埋められた。

  1899年。コーネル・モアハウス(左)は251ポンドのブルーフィン・ツナを仕留め、ホルダーの記録を更新した。
1899年。コーネル・モアハウス(左)は251ポンドのブルーフィン・ツナを仕留め、ホルダーの記録を更新した。
 
同日、『Los Angeles Daily Times』はこの快挙を報じ、アバロン在住の作曲家であるC・A・クラークが彼の最新作に“The Tuna Two-step(ツナ円舞曲)”という題名を付けたと発表した。
『Pasadena Daily News』の6月3日付にはこのニュースが再度取り上げられ、「カタリナで大きな魚を釣りたければ、パサデナ人の近くにいなさい」と読者にアドバイスをしている。
6月15日、カタリナ・ツナ・クラブの予選大会が開かれたが、この時の大会を報じた中で『Pasadena Daily News』は、ホルダーが仕留めたビッグ・フィッシュに再び手放しで喜びを表わしていた。さらに「ホルダー博士が183ポンドの魚を釣り上げたことに疑いを持つ者がいるなら、我が社のオフィスには証拠写真がある」とも付け加えていた。最後に『Los Angeles Daily Times』紙の一節を紹介しよう。
ホルダー教授の主張によれば、実際のツナの重量は183ポンドよりも5ポンド程重いものであった。というのも、血液が失われてしまったために重量が減少してしまったからである。1898年8月22日、『ホテル・メトロポール』で開催されたカタリナ・ツナ・クラブの会議では188ポンドの件について触れ、彼の釣った魚はレコード・フィッシュであることを確認している」。
ホルダーがこのように様々な報道に協力した動機は、単に自己宣伝のためだけではなく、この土地以外のアングリング仲間と、この釣果の喜びを分かち合いたいと思ったからである。彼はマサチューセッツからフロリダまで釣り歩いた経験があるが、南カリフォルニアの海岸沖ほど、気象といいゲームフィッシュの豊富さといい、アングラーにとって楽しい場所は他に無いと感じていたのである。
更に重要なことは、ロッド&リールによるツナ・フィッシングを広めることによって、多くのハンドライナー(手釣り師)達の意識革命を計ろうと考えたことである。同時に、ホルダーと彼の仲間達は、商業上のネッティングによる悪影響を阻止する運動を開始した。ロッド&リールでツナを追い求めて行くアングラー達のクラブを組織することによってスポーツとしてふさわしからぬ手段によるゲーム・フィッシュの捕獲を、たとえ法律によって使用が禁止されることがないにしても、彼らは止めさせようと考えたのである。
ディッキンソン夫人が釣った28ポンドのイエローテイル。アヴァロン・ベイにて。
ディッキンソン夫人が釣った28ポンドのイエローテイル。アヴァロン・ベイにて。
  カタリナ・ツナ・クラブの初版の会則によれば、この組織は
「…合衆国内の水域において、ロッド&リールにより、強度24スレッド(この当時のラインは約50ポンド)以下のラインで100ポンド以上のツナを釣ろうという忍耐強さと技術を持ち併せた男女によってこのクラブは組織される」とある。
1898年7月下旬までにメンバーは24名となり、ホルダーは海釣りについてのあらゆる分野における知識と技術を指導した。それから3年後、1901年に定められた会則の序文は、次のようにかなり広義な意義を唱えるまでに進歩した。「……このクラブの目的は、カリフォルニア州のゲームフィッシュを保護することにある」。
18世紀から19世紀へと移り変わるちょうどその頃、ホルダーが最初のビッグ・ツナを釣った翌年(1899年)、モアハウス大佐は113.9kg(251ポンド)のブルーフィン・ツナを釣り、その記録によってモアハウスの名声は不動のものとなった。彼の記録は、同時にツナ・クラブのレコードを新たに代表するものとなった。彼の記録を記念して、ツナ・クラブでは『モアハウス杯』も設けられた。
しかし、クラブの初期の記録は、1915年の火災で、クラブ・ハウスと共に消失した。
今日の、カタリナ地方でのツナ・アングリングの質の低下を思うにつれ、輝かしい当時の記録が消失したことは残念なことである。

豊穣の海<br>
●恵まれたゲーム・フィールド

ホルダーが最初にカタリナを訪れたのは1886年のことで、かつてはチャンネル諸島で有名だったイエローテイルのフィッシング競技の真っ最中であった。
カタリナの記録が示すところによれば、漁船の網が投げ入れられる前の時代には、イエローテイルが群を作ってアヴァロン湾やその海岸を半マイル以上に渡って激しくたたいていたという。その時代の人々の様子を物語る、牧師にまつわる面白い逸話がある。
――アヴァロンの海岸の端にテント形式の簡単なチャペルを作り、日曜日のミサを行なっていた。すると、賛美歌の大きな歌声にもかかわらず、海の方からヒューヒューという波風の音が聞こえてきた。チャペルの後ろの方にいた信者の一人は歌を止め、そっと抜け出して海の様子を見に行った。彼はすぐに戻ってきて、仲間に何やらささやいていた。すると、他の信者達も次々にチャペルから抜け出して行ってしまった。

  ホルダー(左)はサンタ・カタリナ沖でイエローテイル・フィッシングを楽しんだ。
ホルダー(左)はサンタ・カタリナ沖でイエローテイル・フィッシングを楽しんだ。
 

チャペルの前方、信者達に向かい合うような形で小さな台の上に立っていた聖職者は、明らかに動揺した面持ちで、まだ残っている信者達に向かって、外のうるさい音を消すように、もっと大きな声で賛美歌を唄うように促した。外からは、波のバシャバシャという音と、魚を釣る人々の歓声が聞こえてきた。とうとう信者の数もわずかになってしまい、これ以上ミサを続けても仕方が無いと悟ると、牧師は説教を止め、賛美歌も止めにして通路を駆け抜けて外に出ると、タックルを手にして浜辺に走り出した。既に釣りを始めていた信者達のまわりには魚が元気にピチピチ跳ねていた。彼は海岸に並んで魚を獲っている群集に向かって、「皆の者、止めないか、フェアーに勝負しようじゃないか!」

イエローテイル
●ライトタックルの可能性

1890年頃、ホルダーが再びカタリナ島にやってきた時に手に携えていたものは、セント・ローレンス河で達成した41/2と51/2ポンドのブラックバスの記録を生んだ“古びたブラックバス・ロッド”であった。彼はそのタックルで、今度はイエローテイルを釣ろうと心に決めていた。
当時、カタリナのフィッシング・ガイドと言えばJose Felice Presiado、別名“メキシコのジョイ”一人だけで、少し前までは彼一人がこの島のガイドだったということだ。ホルダーが彼にタックルを見せて、これでイエローテイルを釣りたいと言うと、“メキシコのジョイ”は、「ハンドラインもなしに魚を釣るなんて馬鹿げている」とでも言いたげに大声で笑った。

ホルダーはそのタックルでフィッシングを試みたが、ジョイが予言した通り、そのライトなタックルは、一匹目が釣れる前に壊れてしまった。
しかしながらこの話は、後にこの二人がライト・タックルに再び挑戦してハッピー・エンドとなる訳だが、その時までにホルダーは、実に多様なロッド、リール、ラインの組み合わせでイエローテイルを釣っていた。その数は数え切れない程になっていた。その中には、8オンスのSplit caneのフライ・ロッドで、17ポンドや20ポンドの魚を釣り上げたこともあったが、彼はツナ・クラブのメンバーであるトーマス・マクドナルド・ポッターによって1908年に開発された3−6タックル(※)を試してみたかったのである。
ホルダーと出逢ってから数年後には、ジョイはカタリナのボートマンの中では最古参となりハンドラインとも手を切っていた。実際、ボートの上にハンドラインを持ち込むことさえしなかった。しかし、アングラー達がイエローテイルとのファイトで度々ロッドを壊してしまう姿を見ると、彼は例の無遠慮な笑い声を上げるのだった。

※Three-Six tackle(3−6タックル)
まず、ロッドは木製でなければならない、そしてロッドはバット部(14インチ以内)とチップ部(5フィート以上)で形成され(ロッド全長は6フィート以上)、重量は6オンス(170g)以内。そしてラインは6スレッド・ライン。つまり、6オンス・ロッド、6フィート・ロッド、6スレッド・ラインのことから、一般に『3−6タックル』と呼ばれた。

  9オンス・ロッドで仕留められた39 1/2ポンドの ホワイト・シー・バス
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